Nihoner

中島敦 Atsushi Nakajima 1909.05.05〜1942.12.04

斗南先生

となんせんせい

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一

雲海うんかい蒼茫そうぼう 佐渡さどノ洲

郎ヲ思ウテ 一日ついたち三秋さんしゅうノ愁

四十しじゅう九里くり 風波かぜなみ悪シ

渡ラント欲スレド 妾ガ身自由じゆうナラズ

ははあ、来いとゆたとて行かりょか佐渡さどへだな、と思った。題を見みると、戯翻竹枝ちくしとある。

それは彼かの伯父おじの詩文しぶん集であった。伯父おじは一昨年おととし(昭和しょうわ五年)の夏死んだ。その遺稿いこうが纏まとめられて、この春、文求堂から上梓じょうしされたのである。清末しんまつの碩儒せきじゅで、今は満洲まんしゅう国にいる羅振玉らしんぎょく氏がその序文じょぶんを書いている。その序にいう。

「予往歳おうさい滬江ココウ(上海しゃんはいのこと)ニ寓居ぐうきょス。先後せんご十年間ねんかん、東邦とうほうノ賢豪長者ちょうじゃ、道ニ滬上こじょうニ出ヅルモノ、縞紵こうちょノ歓ヲ聯つらネザルハナシ。一日ついたち昧爽まいそう、櫛沐しつもくニ方あたリ、打門ノ声甚ダ急ナルヲ聞キ、楼欄ニ憑よツテ之これヲ観ルニ、客アリ。清せいく鶴ノ如シ。戸ニ当リテ立ツ。スミヤカニ倒とうしシテ之ヲ迎フ。既ニシテ門ニ入リ名刺めいしヲ出ダス。日本にぽん男子中こなか島端しまはたト書がきス。懐中かいちゅうノ楮墨ちょぼくヲ探リテ予ト筆談ひつだんス。東亜とうあノ情勢じょうせいヲ指陳しちんシテ、傾刻十余紙ヲ尽ス。予洒然せんぜんトシテ之ヲ敬ス。行クニノゾンデ、継イデ見ンコトヲ約シ、ソノ館舎かんしゃヲ詢とヘバ、豊陽館ナリトイフ。翌日あくるひ往イテ之ヲ訪ヘバ、則チ已すでニ行ケリ矣。…………」

これはまた恐ろしく時代じだい離はなれのした世界せかいである。が、「日本にぽん男子だんし云々」の名刺めいしといい、「打門ノ声甚ダ急」といい、「清鶴ノ如シ」といい、「翌日あくるひ訪たずねると、もう何処どこかへ行ってしまっていた」といい、生前せいぜんの伯父おじを知っている者には、如何いかにもその風貌ふうぼうを彷彿ほうふつさせる描写びょうしゃなのだ。三造みつぞうはこれを読よみながら、微笑えみせずにはいられなかった。彼は、この書物しょもつを、大学だいがくと高等こうとう学校がっこうの図書館しょかんへ納めに行ゆくように、家人かじんから頼まれていた。けれども、自分じぶんの伯父おじの著書ちょしょを――それも全然ぜんぜん無名むめいの一漢詩客しかくに過すぎなかった伯父おじの詩文しぶん集を、堂々と図書館しょかんへ持込もちこむことについて、多分たぶんの恥ずかしさを覚おぼえないわけに行かなかった。三造みつぞうは躊躇ちゅうちょを重かさねて、容易たやすいに持って行かなかった。そして、毎日まいにち机の上でひろげては繰返くりかえして眺ながめていた。読んで行ゆく中うちに、狷介けんかいにして善く罵ののしり、人をゆるすことを知らなかった伯父おじの姿が鮮あざやかに浮かんで来くるのである。羅振玉しんぎょく氏の序文じょぶんにはまたいう。

「聞ク、君潔癖けっぺきアリ。終身しゅうしん婦人ふじんヲ近ヅケズ。遺命いめいニ、吾レ死スルノ後、速ヤカニ火化ヲ行ヒ骨灰こっかいヲ太平たいへい洋ニ散ゼヨ。マサニ鬼雄トナツテ、異日いじつ兵ヲ以テ吾ガ国こくニ臨ムモノアラバ、神風かみかぜトナツテ之ヲ禦ふせグベシト。家人かじん謹つつシンデ、ソノ言ニ遵したがフ。…………」

これは凡すべて事実じじつであった。伯父おじの骨は、親戚しんせきの一人ひとりが汽船きせんの上から、遺命いめい通とおり、熊野くまの灘に投じたのである。伯父おじは、そうして鯱さかまたか何かになってアメリカの軍艦ぐんかんを喰べてしまうつもりであったのである。

他人たにんに在っては気障きざや滑稽こっけいに見まみえるこのような事が、(このような遺言いごんや、その他、数々の奇行きこう奇言などが)あとで考かんがえて見れば滑稽こっけいではあっても、伯父おじと面接めんせつしている場合ばあいには、極きわめて似付かわしくさえ見まみえるような、そのような老人ろうじんで伯父おじはあった。それでも、高等こうとう学校がっこうの時分じぶん、三造みつぞうには、この伯父おじのこうした時代じだい離はなれのした厳格げんかくさが、甚はなはだ気障きざな厭味いやみなものに見えた。伯父おじが、自分じぶんの魂の底から、少すこしも己おのれを欺あざむくことなしに、それを正ただしいと信じてそのような言行げんこうをしているとは、到底とうてい彼には信じられなかったのである。其処そこに、彼と伯父おじとの間に、どうにもならない溝があった。事実じじつ彼と伯父おじとの間にはちょうど半世紀せいきの年齢ねんれいの隔へだたりがあった。死んだ時、伯父おじは七十二とうにで、三造みつぞうはその時二十二とうにであった。

親戚しんせきの多くが、三造みつぞうの気質きしつを伯父おじに似ているといった。殊ことに年上としうえの従姉いとこの一人ひとりは、彼が年ねんをとって伯父おじのようにならなければいいが、と、口癖くちぐせのようにいっていた。その言葉ことばが部分ぶぶん的には当っていることを、三造みつぞうも認したためないわけには行ぎょうかなかった。そして、それだけ、彼には、伯父おじの落著おちつきのない性行せいこうが――それが自分じぶんに最もっとも多く伝わっているらしい所の――苦々しく思われるのであった。その伯父おじのすぐ下の弟――つまり三造みつぞうにとっては斉ひとしく伯父おじであるが――の、極端きょくたんに何も求むる所のない、落著らくちゃくいた学究がっきゅう的態度たいどの方が、彼には遥はるかに好もしくうつった。その二番目の伯父おじは、そのようにして古代こだい文字もんじなどを研究けんきゅうしながら、別にその研究けんきゅうの結果けっかを世に問おうとするでもなく、東京とうきょうの真中まなかにいながら、髪を牛若うしわか丸のように結い、二尺近ちかくも白髯はくぜんを貯たくわえて隠者いんじゃのように暮くらしていた。その「お髯ひげの伯父おじ」(甥おいたちはそう呼んでいた。)の物静ものしずかさに対して、上の伯父おじの狂躁きょうそう性を帯びた峻厳しゅんげんが、彼には、大人おとなげなく見えたのである。似ているといわれるたびに彼は、いつも、いやな思おもいをしていた。伯父おじは幼時ようじから非常ひじょうな秀才しゅうさいであったという。六歳にして書を読よみ、十三じゅうそう歳にして漢詩かんし漢文かんぶんを能よくしたというから儒学的がくてきな俊才しゅんさいであったには違いない。にもかかわらず、一生いっしょう、何どちらのまとまった仕事しごともせず、志を得ないで、世を罵ののしり人を罵ののしりながら死んで行ったのである。前の遺稿いこうの序文じょぶんにもあったように、伯父おじは妻をめとらなかった。それが何なんに原因げんいんするものであるかを三造みつぞうは知らない。伯父おじはまた常に、三造みつぞうには無目的もくてきとしか思えないような旅行りょこうを繰返くりかえしていた。支那シナには長く渡っていた。それは伯父おじ自身おのれがいう如く、国事こくじを憂えて、というよりも、単たんに、そのロマンティシズムにエグゾティシズムにそそられたためといった方がいいのではないかと、高等こうとう学校がっこう時代じだいの三造みつぞうは考かんがえていた。この彷浪ほうろう者魂は彼かの一生いっしょうに絶えずつきまとっていたように見まみえる。三造みつぞうの知っているかぎり伯父おじは常に居をかえたり旅行りょこうしたりしていたようであった。この彷徨ほうこうを好このむ気質きしつが自分じぶんにも甚はなはだ多く伝わっていることを、三造みつぞうは時々強く感かんじなければならなかった。ただ、伯父おじの生活せいかつの経済けいざい的方面ほうめんは久しく彼かの謎であった。伯父おじはかつて、『支那しな分割ぶんかつの運命うんめい』なる本を出だしたことがあった。が、そんな売うれない本から印税いんぜいがはいるはずはなかった。大分おういた後になって、(それは伯父おじの晩年ばんねんになってからのことであるが、)伯父おじは経済けいざい的にはほとんど全部ぜんぶ他人たにんの――友人ゆうじんや弟たちや弟子でしたちの――援助えんじょを受うけていることが分った時、三造みつぞうは、まず、この点に向って、心の中で伯父おじを非難ひなんした。自分じぶんで一人前いちにんまえの生活せいかつもできないのに、徒いたずらに人を罵ののしるなぞは、あまり感心かんしんできないと、彼は考かんがえたのである。あとから考かんがえると、これらの非難ひなんは多く、自己じこに類似るいじした精神せいしんの型に対たいする彼自身おのれの反射的しゃてき反撥はんぱつから生れたもののようでもあった。とにかく、彼は、自分じぶんがそれに似ているといわれるこの伯父おじの精神せいしん的特徴とくちょうの一つ一つに向って、一々意地いじの悪わるい批判ひはんの眼を向けようとしていた。それは確たしかに一種いっしゅの自己じこ嫌悪けいんおであった。高等こうとう学校がっこう時代じだいの或ある時期じきの彼かの努力どりょくは、この伯父おじの精神せいしんと彼自身おのれの精神せいしんとに共通きょうつうするいくつかの厭いとうべき特質とくしつを克服こくふくすることに注がれていた。その彼かの意図いとは不当ふとうではなかったにもかかわらず、なお、当時とうじの彼かの、伯父おじに対たいする見方みかたは、不充分じゅうぶんでもあり、また、誤ってもいたようである。即すなわち、伯父おじの奇矯ききょうな言動げんどうは、それが青年せいねんの三造みつぞうにとって滑稽こっけいであり、いやみであると同おんなじ程度ていどに、彼よりも半世紀せいき前に生れた伯父おじ自身おのれにとっては、極きわめて自然じねんであり、純粋じゅんすいなものであるということが、彼には全身ぜんしん的に理解りかいできなかったのである。伯父おじは、いってみれば、昔風の漢学者がくしゃ気質きしつと、狂熱的ねつてきな国士こくし気質きしつとの混淆こんこうした精神せいしん――東洋とうようからも次第しだいにその影を消して行こうとするこういう型の、彼かの知しる限かぎりではその最もっとも純粋じゅんすいな最後さいごの人たちの一人ひとりなのであった。このことが、その頃の彼には、概念がいねん的にしか、つまり半分はんぶんしか呑みこめなかったのである。

二

その年の二月、高等こうとう学校がっこうの記念きねん祭の頃、本郷ほんごうの彼かの下宿げしゅくへ、伯父おじから葉書はがきが来た。利根とね川かわべりの田舎いなかからであった。当分とうぶんここにいるから、土曜どようから日曜にちようへかけてでも、将棋しょうぎを差ざしに来ないか。鶏位なら御馳走ごっつぉするから、というのである。それは、三造みつぞうの高等こうとう学校がっこうを卒業そつぎょうする年で、ちょうどその少すこし前に、彼は、学校がっこうで蹴球しゅうきゅう(アソシエーション)をしていて、顔を蹴られ、顔中繃帯ほうたいをして病院びょういんへ通っていたのであった。実際じっさい間の抜けた話ではあるが、上から落おちてくる球をヘッディングしようとして、ちょっと頭をさげた途端とたんに、その同おんなじ球を狙った足に、下から眼まのあたりをしたたか蹴られたのである。眼鏡がんきょうの硝子ガラスは微塵みじんに砕けて、瞬間しゅんかんはっとつぶった彼かの眼の裏には赤黒あかぐろい渦のような影像えいぞうがはげしく廻転かいてんした。やられた! と思って、動うごかすと目の中が切ぎれるかもしれないとは考かんがえながら、でも、ちょっと試ためす気で細目さいもくに瞼まぶたをあけようとすると、血がべったりと塞ふさいでいて、少すこし動うごくとぽたりと地面じめんに垂たれた。それから二人ふたりの友人ゆうじんにかかえられてすぐに大学だいがく病院びょういんへ行った。硝子しょうしで眼のまわりが切きれただけで、幸いに眼の中には破片はへんははいっていなかったので、傷痕しょうこんを縫ってもらったあと二週間しゅうかんも通えばよかった。しかし、そんな際だったので、ちょうどそれを良いい口実こうじつにして、「怪我けがをしていて残念ざんねんながら行けない」旨を返事へんじしたのであった。彼は伯父おじを前にすると、自分じぶんの老おいた時の姿を目の前にみせつけられるような気がして、伯父おじの仕草しぐさの一つ一つに嫌悪けいんおを感かんずるばかりでなく、時々破裂はれつする伯父おじの疳癪かんしゃく(その故に伯父おじはやかまの伯父おじと、甥や姪たちから呼よばれていた。)にも、慣なれているとはいえ、多少たしょう恐おそれをなしていた。その上その将棋しょうぎというのが、彼よりも一枚半も強こわいくせに、弱よわいものを相手あいてにしていじめるのを楽たのしむといった風で、いつまでたっても止めようとはいい出でるさないのであるから、これにもいささか辟易へきえきせざるを得なかったのである。彼かのその返事へんじに折おり返かえして来た伯父おじの葉書はがきには、災難さいなんはいつ降ってくるか分らず、人は常にそれに対して、何時いつ遭遇そうぐうしても動ぜぬだけの心構こころがまえを養って置くことが必要ひつようである、といった意味いみのことが認したためられていた。そしてそれきりで彼は一月あまり伯父おじのことを忘わすれていた。ところが三月の中頃なかごろ近ちかくなって、またひょっこり、乱暴らんぼうに美しく書きなぐった伯父おじの葉書はがきが舞いこんできた。近い中うちにお前まえの所へ行きたいが、都合つごうは良いいか、というのである。大学だいがくの入学にゅうがく試験しけんが四、五日中にっちゅうにすむので、その後の方が都合つごうがよいのですが、と彼は返事へんじを書いた。ところが、それから三日ほどして、入学にゅうがく試験しけんの中なかの日に、その日の試験しけんをすまして、下宿げしゅくで机に向っていると、襖ふすまをあける女中じょちゅうの声と共に、後から、古風こふうな大おおきいバスケットを提げた伯父おじがはいって来た。これから山へ行ゆくのだと伯父おじはいきなりいった。彼には一向いっこう話が分らなかった。恐おそらく、伯父おじはすでに事の次第しだいを前もって彼に向けて手紙てがみで知しらせてあるという風に勘違かんちがいしていたに違いない。よく聞きくと相州そうしゅうの大山だいせんに籠こもるのだという。大山だいせんの神主かんぬし某の所へ行って、しばらく病を養やしなうのだという。伯父おじはその二、三年前から時々腸出血でちなどをしていた。それを七十しちじゅうを越した伯父おじは、気力一りきいちつで医者いしゃにもかからずに持ちこたえていたのである。その出血でちが近頃ちかごろますます烈はげしいという。そんなに弱っている身体しんたいが、何かにつけて不自由じゆうな山などへ籠っては、ますます不可いけないことは明あきらかなのであるが、それを言ゆうと、どんなに機嫌きげんを悪くするか分らないようなその頃の伯父おじであったので、三造みつぞうも黙っているより外はなかった。それに荷物にもつはもう、先へ向けて送ってあるのだと伯父おじはいっていた。しばらく、そのことを話はなしている中うちに、伯父おじは、三造みつぞうの右の眼の縁に残っている傷痕しょうこんをみつけて、やっと彼かの怪我けがのことを思い出したらしく、その工合ぐあいをたずねた。と、それに対たいする彼かの答をろくに聞ききもしないで、「これから床屋とこやへ行って来くる。今、道で見てきたから場所ばしょは分っている。」と言いい出でるした。見みるとなるほど、髯ひげが――みんな白が黄に染まっているのだが――ひどく伸のびている。頭髪とうはつはそれほど薄くはなく、殊ことに両耳りょうじの上のあたりはかなり長く伸のびて乱みだれている。長寿ちょうじゅの印しといわれる、長くぴんと突つき出でるた眉の下に、大おおきい眼がくぼんでいる。三造みつぞうはその眼を前から美うつくしいと思っていた。この伯父おじと、それから、そのすぐ下の伯父おじ――その牛若うしわか丸のような髪を結った隠者いんじゃのようなお髯の伯父おじと、この二人ふたりの老人ろうじんの眼は、それぞれに違った趣をもってはいるが、共に童貞どうていにだけしか見られない浄きよらかさを持って、いつも美しく澄んでいるのである。一つは、いつも実現じつげんされない夢を見ている人間じんかんの眼で、それからもう一つは、すっかりおちつき切って自然じねんの一部いちぶになってしまったような人間じんかんの眼である。この二人ふたりの伯父おじを並なべて見みるたびに、三造みつぞうはバルザックの『従兄いとこポンス』を思おもい出だす。もちろん、上の伯父おじはポンスよりも気性きしょうが烈しく、下の伯父おじはシュムケよりも更さらに東洋とうよう的な諦観ていかんをより多くもち合あわせているのではあるけれども。

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Where this text comes from

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First published
「光と風と夢」1942(昭和17)年7月15日
Source edition (底本)
底本:「山月記・李陵他九篇」岩波文庫、岩波書店


   1994(平成6)年7月18日第1刷発行

   2003(平成15)年8月25日第16刷発行

底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房

   1976(昭和51)年3月15日

初出:「光と風と夢」筑摩書房

   1942(昭和17)年7月15日

※「読みにくい語、読み誤りやすい語には現代仮名づかいで振り仮名を付す。」との底本の編集方針にそい、旧仮名づかいの部分のルビの拗促音は小書きしました。

入力:川向直樹

校正:門田裕志、小林繁雄

2005年1月5日作成

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
川向直樹
Proofread by (校正)
小林繁雄、門田裕志

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