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与謝野晶子 Akiko Yosano 1878.12.07〜1942.05.29

教育の民主主義化を要求す

きょういくのみんしゅしゅぎかをようきゅうす

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現在げんざいの文部もんぶ大臣おとど中橋なかはし氏はこれまでの伴食大臣ばんしょくだいじんとちがって、教育きょういく界の現状げんじょうを憂慮ゆうりょする誠実せいじつと、それを改造かいぞうする意志いしとを多分たぶんに持っておられるように見え、そのうえ、改造かいぞうを断行だんこうする実力じつりょくをも兼備けんびされているように思われます。私は中橋なかはし氏を信頼しんらいして、ここに私が平素へいそから希望きぼうしている教育きょういく改造かいぞうの一端いったんを御参考さんこうまでに述べたいと思います。

第一だいいちには、教育きょういくが国民くにたみから孤立こりつしていることを改あらためて頂いただきたいのです。明治あきはるの初年しょねんこのかた何事なにごとも官僚かんりょうに由って切きり盛もりされねばならぬ未開みかい時代じだいにあったのですから、教育きょういくもまた官僚かんりょう化したことはやむをえない歴史的してき過程かていであったでしょうが、今はもう教育きょういくの民主みんしゅ主義しゅぎ化を実現じつげんしなければならぬ時機じきに達たっしていると思います。

現在げんざいの教育きょういくは文部もんぶ大臣おとどと、それに属ぞくする官僚かんりょう的教育きょういく者とに由って支配しはいされている教育きょういくです。臨時りんじ教育きょういく会議かいぎというような文部もんぶ大臣おとどの諮詢しじゅん機関きかんが出来しゅったいて、官民かんみんの間から委員いいんが選ばれることもあるようですが、その実際じっさいは真の国民くにたみの代表だいひょう者は参加さんかしておらず、国民くにたみの中の特権とっけん階級かいきゅうである少数しょうすうの財閥ざいばつ者がそれもほんの申訳もうしわけだけに一、二の人たちが加っているに過すぎません。私は司法しほう部の改造かいぞうを唱となえる人たちが陪審ばいしん制度せいどを要望ようぼうし、それに依って司法しほう部の民主みんしゅ主義しゅぎ化を計ろうとするように、府、県、市、町、村に民選みんせんの教育きょういく委員いいんを設もうけて、我国の教育きょういく制度せいどを各自かくじ治体ちたいにおけるそれらの教育きょういく委員いいんの自由じゆう裁量さいりょうに一任いちにんし、これまでの官僚かんりょう的画一かくいつ制度せいどを破やぶると共に、普通ふつう高等こうとう一切いっさいの教育きょういくを国民くにたみ自治じちの中に発達はったつさせて行きたいと思います。

教育きょういく委員いいんとしては、その三分の一を教育きょういく界の経験けいけん家から選挙せんきょし、三分の二はすべての階級かいきゅうにわたる家庭かていにあって現げんに数人の子女しじょを教育きょういくしつつある父母ちちははから選挙せんきょせねばなりません。こういう家庭かてい教育きょういくの経験者げんじゃ――実際じっさいに我子の教育きょういくに責任せきにんを感かんじている父母ちちはは――をして国民くにたみ教育きょういくに参加さんかせしめるということは、教育きょういくを以て国民くにたみの自発じはつ的要求ようきゅうたらしめることであり、これに依って教育きょういくが国民くにたみ自身おのれのものとなる事が出来しゅったい、また今日きょうのように国民くにたみが学校がっこう教育きょういくに冷淡れいたんであるというような変態へんたいを生じることがなくなるであろうと思います。

今日は文部もんぶ省の専制せんせい的裁断さいだんに屈従くつじゅうした教育きょういくです。国民くにたみは全くその子こ女が如何いかなる理想りそうと手段しゅだんとに依って教育きょういくされているかを知りません。国民くにたみに依って討議とうぎされ承認しょうにんされた教育きょういくではないのです。現げんに子女しじょを持った家庭かていの父母ちちははにして、その子こ女が小学しょうがく初はじめ中学ちゅうがく程度ていどの学校がっこうにおいて何を学まなびつつあるかを明確めいかくに認識にんしきしている者が幾人あるでしょうか。彼らはその子こ女のために最もっとも大切な二つの教育きょういく、即すなわち家庭かてい教育きょういくと学校がっこう教育きょういくとを如何いかに協同きょうどうし統一とういつせしむべきかを知らないのは勿論もちろん、学校がっこう教育きょういくに対してその是非ぜひを批判ひはんする材料ざいりょうさえ持っていないのです。これがどうして国民くにたみ教育きょういくの名に値する教育きょういくと呼よぶことが出来しゅったいましょう。教育きょういくが国民くにたみから孤立こりつしていると私のいうのはこれがためです。

学校がっこう教育きょういくは子女しじょを教育きょういくの機械きかいたらしめるものでなく、子女しじょをしてその年頃としごろに必要ひつような一つの生活せいかつを創造そうぞうせしめる事です。その生活せいかつは子女しじょ自身おのれの生活せいかつですが、教育きょういく者は現在げんざいの社会しゃかい生活せいかつから得た知識ちしきと感情かんじょうとを以て、それらの子女しじょの生活せいかつを輔導ほどうし助成じょせいする用意よういがなくてはなりません。しかるに教育きょういくばかりでなく、これまでの教育きょういく者もまた国民くにたみから孤立こりつしているために、彼らが我国の司法官ほうかんが非常識じょうしきであるのと同おなじく、国民くにたみの実際じっさい生活せいかつについて極きわめて貧弱ひんじゃくな経験けいけんしか持っていないのです。教育きょういく者のこういう欠陥けっかんを補おぎなうためにも、多数たすうの教育きょういく委員いいんを家庭かていの父母ちちははから選挙せんきょして官選かんせん司法官ほうかんに対たいする陪審ばいしん司法官ほうかんのように、教育きょういく者の協同きょうどう責任せきにん者たらしめる必要ひつようがあると思います。

国民くにたみの参与さんよを許さない教育きょういくであればこそ、今日きょうまでのように家庭かていの父母ちちははが学校がっこう教育きょういくに対して冷淡れいたんになっていますが、教育きょういく委員いいんとして各自かくじ治体ちたいの教育きょういくに参与くみする権利けんりが多数たすうの父母ちちははに容認ようにんされる暁には、子女しじょの教育きょういくに対たいする国民くにたみの自覚じかくが俄にわかに尖鋭せんえいとなり、その権利けんりを立派りっぱに行使こうしするだけの実力じつりょくが国民くにたみに備わって行ゆくことを私は予断よだんします。こういう風に国民くにたみの自発じはつ的要求ようきゅうに支持しじされてこそ初はじめて国民くにたみ教育きょういくの意義いぎを実現じつげんすることが出来できると思います。只今ただいまのように、学校がっこうから父母ちちははに対して、時々の参観さんかんや学校がっこうに対たいする注意ちゅういを形式けいしき的に求もとめているに過すぎない間は、決けっして教育きょういくは国民くにたみ化せず、官僚かんりょう任せの孤立こりつ的教育きょういくに停滞ていたいするのはやむをえないことだと思います。

第二に私の希望きぼうする改造かいぞうは、小学しょうがく及および中学ちゅうがく程度ていどの学校がっこうにおける国語こくご科の一大いちだい整理せいりです。誰にも気が附つく通とおり、只今ただいまの学科がっかの配置はいちでは国語こくごが余あまりに多くの時間じかんを占めています。私は国語こくごを愛重あいちょうすることにおいて、詩人しじんとして何人なにじんにも譲らない熱情ねつじょうを持っている者であると共に、国語こくごに対たいする理解りかいについても相応そうおうの自信じしんを持っている一人ひとりです。私の慎重しんちょうに考察こうさつする所では、国語こくごは国民くにたみの意志いしを表示ひょうじし合あう手段しゅだんです。既すでに手段しゅだんである以上いじょう、国民くにたみの言語げんごとしては、端的たんてきに国民くにたみの意志いしを表示ひょうじすることが出来しゅったいて、それが自由じゆうにかつ一般いっぱん的に使用しようされるものでなくてはなりません。手段しゅだんのために主要しゅような意志いしの表示ひょうじが不自由じゆうになり、迂遠うえんになり、あるいは晦渋かいじゅうになるようでは、決けっして最上さいじょうの手段しゅだんといわれないのです。また出来できるだけその手段しゅだんは誰にも容易たやすいに使用しようされるものであることを必要ひつようとし、手段しゅだんを学まなぶために特とくに多くの心力しんりょくと時間じかんとを消費しょうひせねばならぬというようでは面白くありません。

国語こくごに対たいする私のこの見解けんかいが承認しょうにんして頂いただけるならば、普通ふつう教育きょういくにおける国語こくごは専もっぱら口語こうご体のみを課かすべきであると思います。口語こうご体は現在げんざいの国民くにたみの思想しそう感情かんじょうを最もっとも明確めいかくに表示ひょうじして、命も、血も、熱もこれに打込んだ第一次かずつぐ的の言語げんごであるのですから、すべての子女しじょは早くから家庭かていでこれに習熟しゅうじゅくしています。学校がっこうにおいては、それを書かきあらわす文字もんじと、少すこしの口語こうごの規則きそくとを教えさえすれば、子女しじょをそれを鳥の自みずから囀さえずるように、楽々として読よみかつ書かくことが出来できるのです。その上すべての読本とくほんを口語こうご体で統一とういつすれば、特とくに国語こくご読本とくほんを授さずける必要ひつようもなくなり、作文さくぶんも頭に浮んだ第一だいいちの思想しそうをそのまま写せば好すく、これがために子女しじょ及および教師きょうしの心力しんりょくと、授業じゅぎょうの時間じかんとをどれだけ多く他の有用ゆうような学科がっかに善用ぜんようし得えるか知れません。

文章ぶんしょう体の言語げんごは古代人だいにんの言語げんごです。それは決けっして現代人だいにんの精神せいしんや感覚かんかくを端的たんてきに表示ひょうじし得えるものでなく、それを現代げんだいに役立てようとすれば、我々は先まずその型を学ばねばなりません。

また文章ぶんしょう体の言語げんごは、今日きょうもなお不完ふかん全な日本にぽん文典ふみのりで辛抱しんぼうしているほどに、科学的がくてきに出来上った言語げんごではなく、直覚ちょっかくを以て感得せねばならぬ所の多おおい特殊とくしゅな詩的してき言語げんごであるのですから、これを現代げんだいの国民くにたみの実用語ようごとする教育きょういく方針ほうしんがもともと間違っているのです。世間せけんには漢字かんじの廃止はいしを唱となえる人がありますけれど、漢字かんじは放任ほうにんして置いても必要ひつようなもの以外いがいは次第しだいに行われない傾向けいこうを持っていますが、文章ぶんしょう語の文法ぶんぽうはこれを教育きょういくにおいて英断えいだんに除外じょがいしない限かぎり、永久えいきゅうに国民くにたみの意思いし表示ひょうじを困難こんなんにして、莫大ばくだいな禍害かがいを国民くにたみ生活せいかつに与あたえるものだと思います。文章ぶんしょう語がどれだけ私たちの意志いしを曲まげたり、稀薄きはくにしたり、勿体もったいぶらせたり、誇張こちょうさせたりしているかは説明せつめいを要しない事実じじつです。倫理りんり教育きょういくにおいて「真実しんじつを尊べ」とか「正直しょうじきに物をいえ」とか教えて置おきながら、文章ぶんしょう語の読本とくほん及および作文さくぶんにおいては、反対はんたいに、意識いしきして真実しんじつから遠ざかった文章ぶんしょうを読よみかつ綴つづらせているのです。手段しゅだんを学まなぶために多大ただいの心力しんりょくと時間じかんとを消費しょうひするのも文章ぶんしょう語であり、その手段しゅだんのためにかえって目的もくてきの意志いし表示ひょうじを不便ふべん不自由じゆうにするのも文章ぶんしょう語であると思います。私のこの意見いけんに反対はんたいされる人たちは、小学しょうがくなり、中学ちゅうがくなり、女学校がっこうなりのいずれかの読本とくほんを一読いちどくされるなら、立たちどころに承認しょうにんされるであろうと思います。何事なにごとにせよ、旧式きゅうしきに属ぞくする手段しゅだんに多くの崇拝すうはいと未練みれんとを持もつ国民くにたみは、文化ぶんか的に世界せかいと進歩しんぽを競い得える積極せっきょく主義しゅぎの国民くにたみでないといわねばなりません。

或人たちは反対はんたいしていわれるでしょう。文章ぶんしょう語は単純たんじゅんなる意志いし表示ひょうじの手段しゅだんではなく、それには日本にぽん国民くにたみの貴重きちょうなる伝統でんとう的精神せいしんが含まれている。文章ぶんしょう語の廃絶はいぜつはやがて国民くにたみ性の廃絶はいぜつであると。恐おそらくこれは保守ほしゅ主義者ぎしゃの拠って以て自みずから守まもる有力な反対はんたい理由りゆうであろうと思います。しかし私は、手段しゅだんたる言語げんごに依って国民くにたみの精神せいしんが左右さゆうされるものとは考かんがえません。その貴重きちょうな伝統でんとう的精神せいしんは現代人だいにんの言語げんごであるところの口語こうごに新訳しんやくすることが出来しゅったいます。現げんに私たちは和漢わかんの古文こぶんを読んだり、その講義こうぎを聴いたりする時、もとの古文こぶんのままでは受用じゅようしていず、それを一々現代げんだいの言語げんごに意訳いやくして理解りかいしています。日本人ほんにんの古代こだい精神せいしんがすべて『古事こじ記』や『万葉まんよう集』の言語げんごに依よるのでなければ理解りかいが出来しゅったいないというものでない限かぎり、今日きょうにもなお必要ひつようだと思おもう古代こだい精神せいしんは、それを自由じゆうに現代げんだいの口語こうごに新訳しんやくして教育きょういくすれば好いのです。古文こぶんを教えないという事は決けっして古代こだい精神せいしんを教えないという事にはなりません。また古文こぶんの教育きょういくは大学だいがくその他の高等こうとう教育きょういく機関きかんにおいて特別とくべつに施ほどこしさえすれば決けっして反対はんたい論者ろんしゃの杞憂きゆうのように廃絶はいぜつするものでないと思います。

第三に私の注意ちゅういしたい所は、現在げんざいの国語こくご読本とくほんや修身おさみ読本とくほんに書かれている口語こうご体が余あまりに悪文あくぶんに満ちていることです。どの文章ぶんしょうを取って見ても、これが現代げんだい語で書かれた立派りっぱな文章ぶんしょうであると思われるものを発見はっけんしません。教科きょうか書の文章ぶんしょうは必かならずしも名文めいぶんたることを要しないと思いますが、とにかく立派りっぱな現代げんだい文の標本ひょうほんであって欲ほしいと思います。果はたして現代げんだいの日本にぽんはこんなにみすぼらしい文章ぶんしょうを以て標本ひょうほんとせねばならぬほどに文学ぶんがくの進歩しんぽが停滞ていたいしているでしょうか。私はこの点にも日本にぽんの教育きょういくが他の社会しゃかいから孤立こりつしていることを悲みます。明治あきはる大正たいしょうの文学者がくしゃの努力どりょくは、前代ぜんだいになかったところの非常ひじょうに優れた口語こうご体の文章ぶんしょうを創造そうぞうしています。国語こくご教育きょういくは、どうしてそれらの最もっとも進歩しんぽした現代げんだいの溌溂はつらつたる国語こくごと協力きょうりょくする所がないのでしょうか。私は現代げんだいの進歩しんぽした国語こくごと離はなれて存在そんざいし得べき真の国語こくご教育きょういくはなかろうと考かんがえます。

殊ことに私の不快ふかいに思おもうことは、読本とくほんに挿まれた長ながい詩や唱歌しょうかが(昭憲あきのり皇后こうこうの御製ぎょせいは別として)口語こうご体のも、文章ぶんしょう体のも、すべて詩歌しいかとしての価値かちを持っていない事です。散文さんぶんが既すでに悪文あくぶんであるのに、更さらに一層いっそう拙悪せつあく野卑やひな散文さんぶんの横書よこがきを以て詩歌しいかの名を僭しているのです。我国の伝統でんとう的精神せいしんを尊重そんちょうするなら、前代ぜんだいの文学ぶんがくに現あらわれた優雅ゆうがな国民くにたみ性をこういう所に細心さいしんに発揮はっきして欲ほしいと思います。明治あきはる大正たいしょうの新あたらしい詩歌しいかに未成みせい品が多おおいとはいえ、それらの読本とくほんにある詩歌しいかよりどれだけ高く真の芸術げいじゅつ品となっているか知れません。

一体いったいに文部もんぶ省が現代げんだいの国語こくご学者がくしゃを文学者がくしゃのように誤解ごかいしているのが宜しくないと思います。国語こくご読本とくほんの編纂へんさんに専門せんもんの詩人しじんや文学者がくしゃを除外じょがいしているために、こういう粗野そやな読本とくほんが出来上り、これに依って国民くにたみの感情かんじょう教育きょういくが非常ひじょうに退化たいかさせられていると思います。私はこの見地けんちから、国語こくご読本とくほんや修身おさみ読本とくほんの国民くにたみ化を望のぞみ、現代げんだいの国民くにたみ的文学者がくしゃをその編纂へんさんに参加さんかさせて、完全かんぜんなる口語こうご体を以て統一とういつ的に改修かいしゅうして頂いただくことを中橋なかはし文相ぶんしょうに御相談そうだんします。(一九いっく一九いっく年四月二十にじゅう五日)

(『中央ちゅうおう公論こうろん』一九いっく一九いっく年五月さつき)

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
「中央公論」1919(大正8)年5月
Source edition (底本)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店

   1985(昭和60)年8月16日初版発行

   1994(平成6年)年6月6日10刷発行

底本の親本:「激動の中を行く」アルス

   1919(大正8)年8月初版発行

初出:「中央公論」

   1919(大正8)年5月

入力:Nana ohbe

校正:門田裕志

2002年5月14日作成

2012年9月15日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
Nana ohbe
Proofread by (校正)
門田裕志

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