Nihoner

与謝野晶子 Akiko Yosano 1878.12.07〜1942.05.29

既成宗教の外

きせいしゅうきょうのそと

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人間じんかんの思慮しりょの及およぶ所には限度げんどがある。天文てんもん学者がくしゃが「宇宙うちゅう」と云っている所は無限むげん大の実在じつざいの一微塵みじんに過すぎない。今のような構造こうぞうをした頭脳ずのうを持っている限かぎり、永久えいきゅうに「不可知ふかちの世界せかい」が儼げんとして人間じんかんの上に掩おおいかぶさっている。それに対して、人間じんかんは全く盲目めくらであり、唖であり、白痴はくちである。

人間じんかんはその思慮しりょの及およぶ範囲はんいで思慮しりょする外は無なあい。その範囲はんいを越こえると「迷信めいしん」に踏ふみ込こむ。私達は最早もはや「迷信めいしん」をも思慮しりょの範囲はんいに入れて生いきることは出来しゅったいない。

野蛮人ばんじんはその「不可知ふかちの世界せかい」を怖れかつ尊んだ。幼穉な想像そうぞうを以て、その「不可知ふかちの世界せかい」に人間じんかん以上いじょうの奇怪きっかいな能力のうりょくを持もつ霊物れいぶつ――神格しんかくと名づくべき霊物れいぶつ――のあることを考え出し、全実在じつざいはそれの所造であり、それに司配しはいされるものであると信じて、その霊物れいぶつに服従ふくじゅうし依頼いらいすることに由って生活せいかつの安定あんていを得ようとした。

多神たしんにせよ、一神いっしんにせよ、それが実在じつざいを創造そうぞうしたので無くて、実は人間じんかんが野蛮やばん時代じだいの想像そうぞうに由ってそれ等の神を案出あんしゅつしたのであった。

人間じんかんの案出あんしゅつした想像そうぞう上の神は、久ひさしい間、客観きゃっかん的に存在そんざいするものと迷信めいしんされて、人間じんかん以上いじょうの不可知ふかちの世界せかいに最高さいこうの位地いちを占め、遙に人間じんかんを見下して、絶対ぜったいの司配しはい的威力いりょくを、人間じんかんには勿論もちろん、全実在じつざいの上に揮ふるうものとなった。

そうして、人間じんかんの所造である神は、どうしても人間じんかんを離かれることが出来しゅったいず、神の性格せいかくは悉ことごとく人間じんかんの性格せいかくの倒影とうえいであった。人間じんかんの残忍性にんしょうと恐怖きょうふ心とに対しては猛悪もうあくな神が作られ、人間じんかんの愛と美と正義せいぎとを欲求よっきゅうする性格せいかくに対しては、それに応おうじる慈悲じひと端麗たんれいと明智あけちとを備えた神が作られ、功利こうり性には福徳ふくとくの神、性欲せいよくには生殖せいしょくの神が作られた。

人間じんかんはそれ等の神神かみがみを尊び怖れ、それに祈り、それに媚びた。犠牲ぎせいが供えられ、財貨ざいかが捧げられ、なお足らずして人間じんかん自身おのれの肉を裂き、血を流ながし、命をも捨てて悔くいなかった。また互に異ことなる神を祀まつる人人ひとびとの間には、謂いわゆる異教徒きょうとの憎悪ぞうおのために、悲惨ひいさんな争闘そうとうが繰返くりかえるされた。こうなると、人間じんかんは自己じこの仮作かさくした神のために多大ただいの禍わざわいを受うけて悩まされたが、人智じんちの蒙昧もうまいな時代じだいにはその非を覚さとることが出来しゅったいなかった。

しかし必要ひつように応じて起ったものは屹度きっとその必要ひつようを満みたして呉くれる。神は一面いちめんに以上いじょうのような禍わざわいを持もち来したが、一面いちめんに人間じんかんを益えきする所もまた多かった。人間じんかんは神の司配しはいの下に、次第しだいに自己じこを高たかめ、深めて、愛を磨みがき出だし、誠実せいじつを加え、勤労きんろうに堪え、理知りちを増まし、芸術げいじゅつを作ずくるに至った。古来こらいの文化ぶんかは、神の信仰しんこうに依よる生活せいかつのために促進そくしんされた所が実げに多おおい。

神を必要ひつようとした古代こだいには、当時とうじの智者ちしゃの中ちゅうから神の代弁だいべん者が現あらわれて威力いりょくを持った。その中の狡猾こうかつな者は神を利用りようして人心じんしんを収め、兵力へいりょくを併せ持って、政治せいじ的に、経済けいざい的に、人間じんかんの司配しはい者たる特権とっけんを占有せんゆうし、その最もっとも大なる者は神権しんけんと王権おうけんとを一身いっしんに兼ね備えた。ますます人智じんちが進んで神の存在そんざいを疑うたがい初はじめた時代じだいに入っても神の信仰しんこうは王権おうけんに由って強制きょうせいされた。

けれども、人間じんかんが外在がいざいの神を不用ふようとし、それの存在そんざいを否定ひていすべく自覚じかくする時代じだいが終ついに来た。宗教しゅうきょう上の聡明そうめいな改革かいかく者が次第しだいに現あらわれて神の性質せいしつが改造かいぞうされ、神を人間じんかん性に発見はっけんして、基督きりすと教の一神いっしん、仏教ぶっきょうの「唯心ゆいしんの仏」が説かれるに至った。最早もはや人間じんかんは客観きゃっかん的に対象たいしょうとして服従ふくじゅうし祈拝はいすべき神を全く持たないのである。天に神は無なあい、西方さいほうに仏は無なあい。またそれ等のものは教会きょうかい寺院じいんの中にも聖書せいしょ経典きょうてんの中にも無なあい。私達の内に在ある人間じんかんの霊性れいせいを自尊じそん自敬じけいして仮に「神」と名づけるだけである。

しかし人間じんかんの霊性れいせいを「神」と称しょうすると否とは人人ひとびとの自由じゆうでなければならない。私個人こじんの実感じっかんとしては早くから「神」の名を好まない。そう云いう人間じんかん以上いじょうの神秘しんぴな名を附けずとも、唯だ精確せいかくに、自然じねんに「人間じんかん性」と呼よぶことで十分じゅうぶんである。加うるに「神」とか「仏」とか云いう名には野蛮やばん時代じだいからの迷信めいしんの臭味しゅうみが多量たりょうに附いていて私には厭である。

「神」の位地いちを今は「人間じんかん性」が占しめるに到ったが、「人間じんかん性」は「神」のような誇大こだい妄想もうそう狂で無なあいから、実在じつざいの創造そうぞう者でも無ければ司配しはい者でも無なあい。自己じこの力の及およぶ限度げんどを知って、唯人間じんかんの思慮しりょの許ゆるす範囲はんいで、人間じんかん同志どうしの平和へいわな、美うつくしい、豊ゆたかな共存きょうそんを目的もくてきとして、敬虔けいけんにかつ勤勉きんべんに、生きようとする。従って、私にも宗教しゅうきょうと名づくべき信仰しんこうがあるなら、それは自己じこ開発かいはつ、自己じこ創造そうぞう、自己じこ礼拝れいはいの意義いぎの外の何なにものでも無なあい。しかし私は元来がんらい、宗教しゅうきょうと云いう言葉ことばさえも快く思わない者である。そう云いうものは、私の生活せいかつには不用ふようの詮議せんぎだと思っている。

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Source edition (底本)
底本:「仏教の名随筆 2」国書刊行会

   2006(平成18)年7月10日初版第1刷発行

底本の親本:「定本 與謝野晶子全集 第十八卷 評論 感想集五」講談社

   1980(昭和55)年11月10日第1刷発行

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2017年11月24日作成

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Typed by (入力)
門田裕志
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