一
橋本の正太は、叔父を訪ねようとして、両側に樹木の多い郊外の道路へ出た。
叔父の家は広い植木屋の地内で、金目垣一つ隔てて、直にその道路へ接したような位置にある。垣根の側には、細い乾いた溝がある。人通りの少い、真空のように静かな初夏の昼過で、荷車の音もしなかった。垣根に近い窓のところからは、叔母のお雪が顔を出して、格子に取縋りながら屋外の方を眺めていた。
正太は窓の下に立った。丁度その家の前に、五歳ばかりに成る児が余念もなく遊んでいた。
「叔母さん、菊ちゃんのお友達?」
心易い調子で、正太はそこに立ったままお雪に尋ねてみた。子供は、知らない大人に見られることを羞じるという風であったが、馳出そうともしなかった。
短い着物に細帯を巻付けたこの娘の様子は、同じ年頃のお菊のことを思出させた。
お雪が夫と一緒に、三人の娘を引連れ、遠く山の上から都会の方へ移った時は、新しい家の楽みを想像して来たものであった。引越の混雑の後で、三番目のお繁――まだ誕生を済ましたばかりのが亡くなった。丁度それから一年過ぎた。復た二番目のお菊が亡くなった。あのお菊が小さな下駄を穿いて、好きな唱歌を歌って歩くような姿は、最早家の周囲に見られなかった。
姉のお房とは違い、お菊の方は遊友達も少なかった。「菊ちゃん、お遊びなさいな」と言って、よく誘いに来たのはこの近所の娘である。
道路には日があたっていた。新緑の反射は人の頭脳の内部までも入って来た。明るい光と、悲哀とで、お雪はすこし逆上るような眼付をした。
「まあ、正太さん、お上んなすって下さい」
こう叔母に言われて、正太は垣根越しに家の内を覗いて見た。
「叔父さんは?」
「一寸歩いて来るなんて、大屋さんの裏の方へ出て行きました」
「じゃ、私も、お裏の方から廻って参りましょう」
正太はその足で、植木屋の庭の方へ叔父を見つけに行くことにした。
この地内には、叔父が借りて住むと同じ型の平屋がまだ外にも二軒あって、その板屋根が庭の樹木を隔てて、高い草葺の母屋と相対していた。植木屋の人達は新茶を造るに忙しい時であった。縁日向の花を仕立てる畠の尽きたところまで行くと、そこに木戸がある。その木戸の外に、茶畠、野菜畠などが続いている。畠の間の小径のところで正太は叔父の三吉と一緒に成った。
新開地らしい光景は二人の眼前に展けていた。ところどころの樹木の間には、新しい家屋が光って見える。青々とした煙も立ち登りつつある。
三吉は眺め入って、
「どうです、正太さん、一年ばかりの間に、随分この辺は変りましたろう」
と弟か友達にでも話すような調子で言って、茶畠の横手に養鶏所の出来たことなどまで正太に話し聞せた。
何となく正太は元気が無かった。彼の上京は、叔父が長い仕事を持って山を下りたよりも早かった。一頃は本所辺に小さな家を借りて、細君の豊世と一緒に仮の世帯を持ったが、間もなくそこも畳んで了い、細君は郷里へ帰し、それから単独に成って事業の手蔓を探した。彼の気質は普通の平坦な道を歩かせなかった。乏しい旅費を懐にしながら、彼は遠く北海道から樺太まで渡り、空しくコルサコフを引揚げて来て、青森の旅舎で酷く煩ったこともあった。もとより資本あっての商法では無い。磐城炭の売込を計劃したことも有ったし、南清地方へ出掛けようとして、会話の稽古までしてみたことも有った。未だ彼はこれという事業に取付かなかった。唯、焦心った。
そればかりでは無い。叔父という叔父は、いずれも東京へ集って来ている。長いこと家に居なかった実叔父は壮健で帰って来ている。森彦叔父は山林事件の始末をつけて、更に別方面へ動こうとしている。三吉叔父も、漸く山から持って来た仕事を纏めた。早く東京で家を持つように成ろう、この考えは正太の胸の中を往来していた。
動き光る若葉のかげで、三吉、正太の二人はしばらく時を移した。やがて庭の方へ引返して行った。荵を仕立てる場所について、植木室の側を折れ曲ると、そこには盆栽棚が造り並べてある。香の無い、とは言え誘惑するように美しい弁の花が盛んに咲乱れている。植木屋の娘達は、いずれも素足に尻端折で、威勢よく井戸の水を汲んでいるのもあれば、如露で花に灑いでいるのもあった。三吉は自分の子供に逢った。
「房ちゃん」
と正太も見つけて呼んだ。
お房は、耳のあたりへ垂下る厚い髪の毛を煩さそうにして、うっとりとした眼付で二人の方を見た。何処か気分のすぐれないこの子供の様子は、余計にその容貌を娘らしく見せた。
「叔父さん、まだ房ちゃんは全然快くなりませんかネ」
「どうも、君、熱が出たり退いたりして困る。二人ばかり医者にも診て貰いましたがネ。大して悪くもなさそうですが、快くも成らない―なんでも医者の言うには腸から来ている熱なんだそうです。」
こんな話をしながら、二人はお房を連れて、庭づたいに井戸のある方へ廻った。
「でも、房ちゃんは余程姉さんらしく成りましたネ」
と正太は木犀の樹の側を通る時に言った。
この木犀は可成の古い幹で、細長い枝が四方へ延びていた。それを境に、疎な竹の垣を繞らして、三吉の家の庭が形ばかりに区別してある。
「お雪、房ちゃんに薬を服ましたかい」
と三吉は庭から尋ねてみた。正太も縁側のところへ腰掛けた。
「どういうものか、房ちゃんはあんな風なんですよ」とお雪はそこへ来て、娘の方を眺めながら言った。「すこし屋外へ遊びに出たかと思うと、直に帰って来て、ゴロゴロしてます。今も、父さん達のところへ行って見ていらっしゃいッて、私が無理に勧めて遣ったんですよ」
長い労作の後で、三吉も疲れていた。不思議にも彼は休息することが出来なかった。唯疲労に抵抗するような眼付をしながら、甥と一緒に庭へ向いた部屋へ上った。
「正太さん、大屋さんから新茶を貰いました――一つ召上ってみて下さい」
こう言ってお雪が持運んで来た。三吉は、その若葉の香を嗅ぐようなやつを、甥にも勧め、自分でも啜って、仕事の上の話を始めた。彼の話はある露西亜人のことに移って行った。その人のことを書いた本の中に、細君が酸乳というものを製えて、著作で労れた夫に飲ませたというところが有った。それを言出した。
「ああいう強壮な体格を具えた異人ですらもそうかナア、と思いましたよ。なにしろ、僕なぞは随分無理な道を通って来ましたからネ。仕事が済んで、いよいよそこへ筆を投出した時は――その心地は、君、何とも言えませんでした。部屋中ゴロゴロ転がって歩きたいような気がしました」
正太は笑わずにいられなかった。
三吉は言葉を継いで、「自分の行けるところまで行ってみよう――それより外に僕は何事も考えていなかったんですネ。一方へ向いては艱難とも戦わねばならずサ。それに子供は多いと来てましょう。ホラ、あのお繁の亡くなった時には、山から書籍を詰めて持って来た茶箱を削り直して貰って、それを子供の棺にして、大屋さんと二人で寺まで持って行きました。そういう勢でしたサ。お繁が死んでくれて、反って難有かったなんて、串談半分にも僕はそんなことをお雪に話しましたよ……ところが君、今度は家のやつが鳥目などに成るサ……」
「そうそう」と正太も思出したように、「あの時はエラかった。私も新宿まで鶏肉を買いに行ったことが有りました」
「そんな思をして骨を折って、漸くまあ何か一つ為た、と思ったらどうでしょう。復たお菊が亡くなった。僕は君、悲しいなんていうところを通越して、呆気に取られて了いました――まるで暴風にでも、自分の子供を浚って持って行かれたような――」
思わず三吉はこんなことを言出した。この郊外へ引移ってから、彼の家では初めての男の児が生れていた。種夫と言った。その乳呑児を年若な下婢に渡して置いて、やがてお雪も二人の話を聞きに来た。
「どんなにか叔母さんも御力落しでしょう」と正太はお雪の方へ向いて、慰め顔に、「郷里の母からも、その事を手紙に書いて寄しました」
「菊ちゃんが死んじゃったんでは、真実にツマリません」とお雪が答える。
「此頃は君、大変な婦人が僕の家へ舞込んで来ました」と三吉が言ってみた。「――切下げ髪にして、黒い袴を穿いてネ。突然入って来たかと思うと、説教を始めました。恐しい権幕でお雪を責めて行きましたッけ」
「大屋さんの御親類」とお雪も引取って、「その人が言うには、なんでも私の信心が足りないんですッて――ですから私の家には、こんなに不幸ばかり続くんですッて――この辺は、貴方、それは信心深い処なんですよ」こう正太に話し聞かせた。
不安な眼付をしながら、三吉は家の中を眺め廻した。中の部屋の柱のところには、お房がリボンの箱などを取出して、遊びに紛れていた。三吉は思付いたように、お房の方へ立って行った。一寸、子供の額へ手を宛ててみて、復た正太の前に戻った。
その時、表の格子戸の外へ来て、何かゴトゴト言わせているものが有った。
「菊ちゃんのお友達が来た」
と言って、お雪は玄関の方へ行ってみた。しばらく彼女は上り端の障子のところから離れなかった。
「オイ、菓子でもくれて遣りナ」
と夫に言われて、お雪は中の部屋にある仏壇の扉を開けた。そして、新しい位牌に供えてあった物を取出した。近所の子供が礼を言って、馳出して行った後でも、まだお雪は耳を澄まして、小さな下駄の音に聞入った。
女学生風の袴を着けた娘がそこへ帰って来た。お延と言って、郷里から修行に出て来た森彦の総領――三吉が二番目の兄の娘である。この娘は叔父の家から電車で学校へ通っていた。
「兄さん、被入しゃい」
とお延は正太に挨拶した。従兄妹同志の間ではあるが日頃正太のことを「兄さん、兄さん」と呼んでいた。
毎日のようにお雪は子供の墓の方へ出掛けるので――尤も、寺も近かったから――その日もお延を連れて行くことにした。後に残った三吉と正太とは、互に足を投出したり、寝転んだりして話した。
その時まで、正太は父の達雄のことに就いて、何事も話さなかった。遽かに、彼は坐り直した。
「まだ叔父さんにも御話しませんでしたが、漸く吾家の阿父の行衛も分りました」
こんなことを言出した。久しく居所さえも不明であった達雄のことを聞いて、三吉も身を起した。
「先日、Uさんが神戸の方から出て来まして、私に逢いたいということですから――」と言って、正太は声を低くして、「その時Uさんの話にも、阿父も彼方で教員してるそうです。まあ食うだけのことには困らん……それにしても、あんなに家を滅茶滅茶にして出て行った位ですから、もうすこし阿父も何か為るかと思いましたよ」
「あの若い芸者はどうしましたろう――達雄さんが身受をして連れて行ったという少婦が有るじゃありませんか」
「あんなものは、最早疾にどうか成って了いましたあね」
「そうかナア」
「で、叔父さん、Uさんが言うには、考えて見れば橋本さんも御気の毒ですし、ああして唯孤独で置いてもどうかと思うからして、せめて家族の人と手紙の遣取位はさせて進げたいものですッて」
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- Source edition (底本)
- 底本:「家(下)」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年5月10日発行
1968(昭和43)年4月30日第18刷改版
1998(平成10)年9月5日50刷
入力:(株)モモ
校正:藤田禎宏
2000年12月5日公開
2010年11月2日修正
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