Nihoner

芥川竜之介 Ryunosuke Akutagawa 1892.03.01〜1927.07.24

一夕話

いっせきわ

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「何なにしろこの頃ごろは油断ゆだんがならない。和田わださえ芸者げいしゃを知っているんだから。」

藤井ふじいと云いう弁護べんご士は、老酒ラオチュの盃さかずきを干ほしてから、大仰おおぎょうに一同いちどうの顔を見まわした。円卓テエブルのまわりを囲んでいるのは同おんなじ学校がっこうの寄宿きしゅく舎にいた、我々六人の中年者ちゅうねんものである。場所ばしょは日比谷ひびやの陶陶亭とうとうていの二階にかい、時は六月むつきのある雨の夜、――勿論もちろん藤井ふじいのこういったのは、もうそろそろ我々の顔にも、酔色すいしょくの見え出した時分じぶんである。

「僕はそいつを見せつけられた時には、実際じっさい今昔こんじゃくの感に堪えなかったね。――」

藤井ふじいは面白そうに弁じ続けた。

「医科いかの和田わだといった日には、柔道じゅうどうの選手せんしゅで、賄征伐まかないせいばつの大将だいじょうで、リヴィングストンの崇拝すうはい家で、寒中かんちゅう一重物ひとえもので通した男で、――一言いちごんにいえば豪傑ごうけつだったじゃないか? それが君、芸者げいしゃを知っているんだ。しかも柳橋やなぎばしの小こえんという、――」

「君はこの頃ころ河岸かしを変えたのかい?」

突然とつぜん横槍よこやりを入れたのは、飯沼いいぬまという銀行ぎんこうの支店長てんちょうだった。

「河岸かしを変えた? なぜ?」

「君がつれて行った時なんだろう、和田わだがその芸者げいしゃに遇あったというのは?」

「早まっちゃいけない。誰が和田わだなんぞをつれて行ゆくもんか。――」

藤井ふじいは昂然こうぜんと眉を挙げた。

「あれは先月せんげつの幾日だったかな? 何でも月曜げつようか火曜かようだったがね。久しぶりに和田わだと顔を合あわせると、浅草せんそうへ行こうというじゃないか? 浅草せんそうはあんまりぞっとしないが、親愛しんあいなる旧友きゅうゆうのいう事だから、僕も素直すなおに賛成さんせいしてさ。真まっ昼間ぴるま六区ろっくへ出でかけたんだ。――」

「すると活動かつどう写真しゃしんの中にでもい合あわせたのか?」

今度こんどはわたしが先くぐりをした。

「活動かつどう写真しゃしんならばまだ好いいが、メリイ・ゴオ・ラウンドと来ているんだ。おまけに二人ふたりとも木馬きうまの上へ、ちゃんと跨またがっていたんだからな。今考かんがえても莫迦莫迦ばかばかしい次第しだいさ。しかしそれも僕の発議ほつぎじゃない。あんまり和田わだが乗のりたがるから、おつき合いにちょいと乗って見たんだ。――だがあいつは楽じゃないぜ。野口のぐちのような胃弱いじゃくは乗らないが好いい。」

「子供こどもじゃあるまいし。木馬きうまになんぞ乗のるやつがあるもんか?」

野口のぐちという大学だいがく教授きょうじゅは、青黒あおぐろい松花スンホアを頬張ったなり、蔑さげすむような笑わらい方をした。が、藤井ふじいは無頓着むとんじゃくに、時々和田わだへ目をやっては、得々とくとくと話を続つずけて行った。

「和田わだの乗ったのは白じろい木馬きうま、僕の乗ったのは赤あかい木馬きうまなんだが、楽隊がくたいと一いっしょにまわり出された時には、どうなる事かと思ったね。尻は躍おどるし、目はまわるし、振り落されないだけが見っけものなんだ。が、その中でも目についたのは、欄干らんかんの外そとの見物けんぶつの間に、芸者げいしゃらしい女が交まじっている。色の蒼白あおじろい、目の沾うるんだ、どこか妙な憂鬱ゆううつな、――」

「それだけわかっていれば大丈夫だいじょぶだ。目がまわったも怪あやしいもんだぜ。」

飯沼いいぬまはもう一度ひとたび口を挟んだ。

「だからその中でもといっているじゃないか? 髪は勿論もちろん銀杏返いちょうがえし、なりは薄青うすあおい縞しまのセルに、何か更紗さらさの帯だったかと思おもう、とにかく花柳小説かりゅうしょうせつの挿絵さしえのような、楚々そそたる女が立っているんだ。するとその女が、――どうしたと思おもう? 僕の顔をちらりと見みるなり、正まさに嫣然えんぜんと一笑いっしょうしたんだ。おやと思ったが間まに合わない。こっちは木馬きうまに乗っているんだから、たちまち女の前は通りすぎてしまう。誰だったかなと思おもう時には、もうわが赤あかい木馬きうまの前へ、楽隊がくたいの連中れんじゅうが現あらわれている。――」

我々は皆笑わらい出した。

「二度目もやはり同おんなじ事さ。また女がにっこりする。と思おもうと見えなくなる。跡あとはただ前後ぜんご左右さゆうに、木馬きうまが跳はねたり、馬車ばしゃが躍ったり、然しからずんば喇叭らっぱがぶかぶかいったり、太鼓たいこがどんどん鳴っているだけなんだ。――僕はつらつらそう思ったね。これは人生じんせいの象徴しょうちょうだ。我々は皆同じように実生活せいかつの木馬きうまに乗のせられているから、時ときたま『幸福こうふく』にめぐり遇っても、掴つかまえない内にすれ違ってしまう。もし『幸福こうふく』を掴つかまえる気ならば、一思ひとおもいに木馬きうまを飛とび下おりるが好よい。――」

「まさかほんとうに飛び下りはしまいな?」

からかうようにこういったのは、木村きむらという電気でんき会社かいしゃの技師長しちょうだった。

「冗談じょうだんいっちゃいけない。哲学てつがくは哲学てつがく、人生じんせいは人生じんせいさ。――所がそんな事を考かんがえている内に、三度目になったと思おもい給え。その時ふと気がついて見みると、――これには僕も驚いたね。あの女が笑顔えがおを見せていたのは、残念ざんねんながら僕にじゃない。賄征伐まかないせいばつの大将だいじょう、リヴィングストンの崇拝すうはい家、ETC. ETC. ……ドクタア和田長平わだりょうへいにだったんだ。」

「しかしまあ哲学てつがく通とおりに、飛び下りなかっただけ仕合しあわせだったよ。」

無口むくちな野口のぐちも冗談じょうだんをいった。しかし藤井ふじいは相不変あいかわらず話を続つずけるのに熱中ねっちゅうしていた。

「和田わだのやつも女の前へ来くると、きっと嬉しそうに御時宜おじぎをしている。それがまたこう及および腰ごしに、白じろい木馬きうまに跨またがったまま、ネクタイだけ前へぶらさげてね。――」

「嘘をつけ。」

和田わだもとうとう沈黙ちんもくを破った。彼はさっきから苦笑くしょうをしては、老酒ラオチュばかりひっかけていたのである。

「何、嘘なんぞつくもんか。――が、その時はまだ好いいんだ。いよいよメリイ・ゴオ・ラウンドを出たとなると、和田わだは僕も忘わすれたように、女とばかりしゃべっているじゃないか? 女も先生せんせい先生せんせいといっている。埋うまらない役やくまわりは僕一人ひとりさ。――」

「なるほど、これは珍談ちんだんだな。――おい、君、こうなればもう今夜こんやの会費かいひは、そっくり君に持って貰もらうぜ。」

飯沼いいぬまは大おおきい魚翅イウツウの鉢へ、銀の匙さじを突きこみながら、隣にいる和田わだをふり返った。

「莫迦ばかな。あの女は友ともだちの囲かこいものなんだ。」

和田わだは両肘りょうひじをついたまま、ぶっきらぼうにいい放った。彼かの顔は見渡みわたした所、一座いちざの誰よりも日に焼やけている。目鼻めはな立ちも甚はなはだ都会とかいじみていない。その上五分刈ごぶがりに刈かりこんだ頭は、ほとんど岩石がんせきのように丈夫たけおそうである。彼は昔ある対校たいこう試合しあいに、左の臂ひじを挫くじきながら、五人までも敵を投なげた事があった。――そういう往年おうねんの豪傑ごうけつぶりは、黒ぐろい背広せびろに縞のズボンという、当世とうせい流行はやりのなりはしていても、どこかにありありと残っている。

「飯沼いいぬま! 君の囲かこい者ものじゃないか?」

藤井ふじいは額越ひたいごしに相手あいてを見みると、にやりと酔よった人の微笑えみを洩もらした。

「そうかも知れない。」

飯沼いいぬまは冷然れいぜんと受うけ流ながしてから、もう一度ひとたび和田わだをふり返った。

「誰だい、その友ともだちというのは?」

「若槻わかつきという実業じつぎょう家だが、――この中でも誰か知っていはしないか? 慶応けいおうか何か卒業そつぎょうしてから、今じゃ自分じぶんの銀行ぎんこうへ出ている、年配ねんぱいも我々と同おんなじくらいの男だ。色の白じろい、優やさしい目をした、短みじかい髭ひげを生やしている、――そうさな、まあ一言いちごんにいえば、風流ふうりゅう愛あいすべき好男子だんしだろう。」

「若槻峯太郎わかつきみねたろう、俳号はいごうは青蓋せいがいじゃないか?」

わたしは横合よこあいから口を挟はさんだ。その若槻わかつきという実業じつぎょう家とは、わたしもつい四五しご日前まえ、一いっしょに芝居しばいを見ていたからである。

「そうだ。青蓋せいがい句集くしゅうというのを出だしている、――あの男が小えんの檀那だんななんだ。いや、二月ふたつきほど前まえまでは檀那だんなだったんだ。今じゃ全然ぜんぜん手を切っているが、――」

「へええ、じゃあの若槻わかつきという人は、――」

「僕の中学ちゅうがく時代じだいの同窓どうそうなんだ。」

「これはいよいよ穏おだやかじゃない。」

藤井ふじいはまた陽気ようきな声を出した。

「君は我々が知らない間あいだに、その中学ちゅうがく時代じだいの同窓どうそうなるものと、花を折り柳に攀よじ、――」

「莫迦ばかをいえ。僕があの女に会ったのは、大学だいがく病院びょういんへやって来た時に、若槻わかつきにもちょいと頼まれていたから、便宜べんぎを図ってやっただけなんだ。蓄膿症ちくのうしょうか何かの手術しゅじゅつだったが、――」

和田わだは老酒ラオチュをぐいとやってから、妙に考かんがえ深ぶかい目めつきになった。

「しかしあの女は面白おもしろいやつだ。」

「惚ほれたかね?」

木村きむらは静しずかにひやかした。

「それはあるいは惚ほれたかも知れない。あるいはまたちっとも惚ほれなかったかも知れない。が、そんな事よりも話はなしたいのは、あの女と若槻わかつきとの関係かんけいなんだ。――」

和田わだはこう前置まえおきをしてから、いつにない雄弁ゆうべんを振い出した。

「僕は藤井ふじいの話した通とおり、この間あいだ偶然ぐうぜん小えんに遇った。所が遇って話はなして見みると、小えんはもう二月ほど前に、若槻わかつきと別わかれたというじゃないか? なぜ別わかれたと訊きいて見ても、返事へんじらしい返事へんじは何もしない。ただ寂しそうに笑わらいながら、もともとわたしはあの人のように、風流人ふうりゅうじんじゃないんですというんだ。

「僕もその時は立入たてりっても訊きかず、夫それなり別わかれてしまったんだが、つい昨日きのう、――昨日さくじつは午ひる過ぎは雨が降っていたろう。あの雨の最中さいちゅうに若槻わかつきから、飯を食くいに来ないかという手紙てがみなんだ。ちょうど僕も暇だったし、早はやめに若槻わかつきの家へ行って見みると、先生せんせいは気の利きいた六畳の書斎しょさいに、相不変あいかわらず悠々と読書どくしょをしている。僕はこの通とおり野蛮人やばんじんだから、風流ふうりゅうの何なんたるかは全然ぜんぜん知らない。しかし若槻わかつきの書斎しょさいへはいると、芸術げいじゅつ的とか何とかいうのは、こういう暮くらしだろうという気がするんだ。まず床とこの間まにはいつ行っても、古ふるい懸物かけものが懸っている。花も始終しじゅう絶やした事はない。書物しょもつも和書わしょの本箱ほんばこのほかに、洋書ようしょの書棚しょだなも並なべてある。おまけに華奢きゃしゃな机の側には、三味線しゃみせんも時々は出だしてあるんだ。その上そこにいる若槻わかつき自身おのれも、どこか当世とうせいの浮世絵うきよえじみた、通人つうじんらしいなりをしている。昨日きのうも妙な着物きものを着ているから、それは何だねと訊きいて見みると、占城チャンパ

という物だと答こたえるじゃないか? 僕の友ともだち多おおしといえども、占城チャンパなぞという着物きものを着ているものは、若槻わかつきを除いては一人ひとりもあるまい。――まずあの男の暮しぶりといえば、万事ばんじこういった調子ちょうしなんだ。

「僕はその日ひ膳ぜんを前に、若槻わかつきと献酬けんしゅうを重かさねながら、小えんとのいきさつを聞かされたんだ。小えんにはほかに男がある。それはまあ格別かくべつ驚かずとも好よい。が、その相手あいては何かと思えば、浪花節語なにわぶしかたりの下したっ端ぱなんだそうだ。君たちもこんな話を聞いたら、小えんの愚ぐを哂わらわずにはいられないだろう。僕も実際じっさいその時には、苦笑くしょうさえ出来しゅったいないくらいだった。

「君たちは勿論もちろん知らないが、小えんは若槻わかつきに三年この方ほう、随分ずいぶ尽して貰っている。若槻わかつきは小えんの母親ははおやばかりか、妹の面倒めんどうも見てやっていた。そのまた小えん自身おのれにも、読よみ書かきといわず芸事げいごとといわず、何でも好すきな事を仕込ませていた。小えんは踊おどりも名を取っている。長唄ながうたも柳橋やなぎばしでは指折ゆびおりだそうだ。そのほか発句ほっくも出来できるというし、千蔭流ちかげりゅうとかの仮名かなも上手うわてだという。それも皆若槻わかつきのおかげなんだ。そういう消息しょうそくを知っている僕は、君たちさえ笑止しょうしに思おもう以上いじょう、呆あきれ返らざるを得ないじゃないか?

「若槻わかつきは僕にこういうんだ。何、あの女と別わかれるくらいは、別に何とも思ってはいません。が、わたしは出来できる限かぎり、あの女の教育きょういくに尽して来ました。どうか何事なにごとにも理解りかいの届いた、趣味しゅみの広ひろい女に仕立じたててやりたい、――そういう希望きぼうを持っていたのです。それだけに今度こんどはがっかりしました。何も男を拵こしらえるのなら、浪花なにわ節語がたりには限らないものを。あんなに芸事げいごとには身を入れていても、根性こんじょうの卑いやしさは直らないかと思おもうと、実際じっさい苦々にがにがしい気がするのです。………

「若槻わかつきはまたこうもいうんだ。あの女はこの半年はんとしばかり、多少たしょうヒステリックにもなっていたのでしょう。一時いちじはほとんど毎日まいにちのように、今日きょう限かぎり三味さみ線を持たないとかいっては、子供こどものように泣いていました。それがまたなぜだと訊たずねて見みると、わたしはあの女を好いていない、遊芸ゆうげいを習わせるのもそのためだなぞと、妙な理窟りくつをいい出だすのです。そんな時はわたしが何といっても、耳にかける気色けしきさえありません。ただもうわたしは薄情はくじょうだと、そればかり口惜くやしそうに繰返くりかえすのです。もっとも発作ほっささえすんでしまえば、いつも笑わらい話ばなしになるのですが、………

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First published
「サンデー毎日」1922(大正11)年7月
Source edition (底本)
底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房


   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行

   1995(平成7)年4月10日第6刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房

   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

入力:j.utiyama

校正:かとうかおり

1999年1月10日公開

2004年3月8日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
j.utiyama
Proofread by (校正)
かとうかおり

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