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芥川竜之介 Ryunosuke Akutagawa 1892.03.01〜1927.07.24

或恋愛小説

あるれんあいしょうせつ

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ある婦人ふじん雑誌ざっし社の面会めんかい室。

主筆しゅひつ でっぷり肥ふとった四し十前後ぜんごの紳士しんし。

堀川保吉ほりかわやすきち 主筆しゅひつの肥っているだけに痩やせた上にも痩やせて見まみえる三十さんじゅう前後ぜんごの、――ちょっと一口ひとくちには形容けいよう出来しゅったいない。が、とにかく紳士しんしと呼よぶのに躊躇ちゅうちょすることだけは事実じじつである。

主筆しゅひつ 今度こんどは一つうちの雑誌ざっしに小説しょうせつを書いては頂けないでしょうか? どうもこの頃ころは読者どくしゃも高級こうきゅうになっていますし、在来ざいらいの恋愛れんあい小説しょうせつには満足まんぞくしないようになっていますから、……もっと深ぶかい人間じんかん性に根ねざした、真面目まじめな恋愛れんあい小説しょうせつを書いて頂いただきたいのです。

保吉やすきち それは書かきますよ。実はこの頃ころ婦人ふじん雑誌ざっしに書かきたいと思っている小説しょうせつがあるのです。

主筆しゅひつ そうですか? それは結構けっこうです。もし書いて頂ければ、大おおいに新聞しんぶんに広告こうこくしますよ。「堀川ほりかわ氏の筆に成なれる、哀婉あいえん極きわまりなき恋愛れんあい小説しょうせつ」とか何とか広告こうこくしますよ。

保吉やすきち 「哀婉極りなき」? しかし僕の小説しょうせつは「恋愛れんあいは至上しじょうなり」と云いうのですよ。

主筆しゅひつ すると恋愛れんあいの讃美さんびですね。それはいよいよ結構けっこうです。厨川くりやがわ博士はかせの「近代きんだい恋愛れんあい論」以来いらい、一般いっぱんに青年せいねん男女なんにょの心は恋愛れんあい至上しじょう主義しゅぎに傾いていますから。……勿論もちろん近代きんだい的恋愛れんあいでしょうね?

保吉やすきち さあ、それは疑問ぎもんですね。近代きんだい的懐疑かいぎとか、近代きんだい的盗賊とうぞくとか、近代きんだい的白髪染しらがぞめとか――そう云いうものは確たしかに存在そんざいするでしょう。しかしどうも恋愛れんあいだけはイザナギイザナミの昔以来いらい余あまり変らないように思いますが。

主筆しゅひつ それは理論りろんの上だけですよ。たとえば三角さんかく関係かんけいなどは近代きんだい的恋愛れんあいの一例ですからね。少すこしくとも日本にぽんの現状げんじょうでは。

保吉やすきち ああ、三角さんかく関係かんけいですか? それは僕の小説しょうせつにも三角さんかく関係かんけいは出て来くるのです。……ざっと筋を話はなして見ましょうか?

主筆しゅひつ そうして頂ければ好都合こうつごうです。

保吉やすきち 女主人公じょしゅじんこうは若わかい奥さんなのです。外交がいこう官の夫人ふじんなのです。勿論もちろん東京とうきょうの山やまの手ての邸宅ていたくに住んでいるのですね。背せいのすらりとした、ものごしの優やさしい、いつも髪は――一体いったい読者どくしゃの要求ようきゅうするのはどう云いう髪に結ゆった女主人しゅじん公ですか?

主筆しゅひつ 耳隠みみかくしでしょう。

保吉やすきち じゃ耳隠みみかくしにしましょう。いつも髪を耳隠みみかくしに結った、色の白じろい、目の冴さえ冴ざえしたちょっと唇くちびるに癖のある、――まあ活動かつどう写真しゃしんにすれば栗島澄子くりしますみこの役所やくどころなのです。夫の外交がいこう官も新時代じだいの法学士がくしですから、新派しんぱ悲劇ひげきじみたわからずやじゃありません。学生がくせい時代じだいにはベエスボールの選手せんしゅだった、その上道楽どうらくに小説しょうせつくらいは見みる、色の浅黒あさぐろい好男子だんしなのです。新婚しんこんの二人ふたりは幸福こうふくに山やまの手ての邸宅ていたくに暮くらしている。一いっしょに音楽おんがく会へ出でかけることもある。銀座ぎんざ通とおりを散歩さんぽすることもある。………

主筆しゅひつ 勿論もちろん震災しんさい前でしょうね?

保吉やすきち ええ、震災しんさいのずっと前です。……一いっしょに音楽おんがく会へ出でかけることもある。銀座ぎんざ通とおりを散歩さんぽすることもある。あるいはまた西洋間せいようまの電燈でんとうの下に無言むごんの微笑えみばかり交かわすこともある。女主人しゅじん公はこの西洋間ようまを「わたしたちの巣」と名づけている。壁にはルノアルやセザンヌの複製ふくせいなどもかかっている。ピアノも黒ぐろい胴を光らせている。鉢植はちうえの椰子やしも葉を垂らしている。――と云いうと多少たしょう気が利きいていますが、家賃やちんは案外あんがい安やすいのですよ。

主筆しゅひつ そう云いう説明せつめいは入いらないでしょう。少すこしくとも小説しょうせつの本文ほんぶんには。

保吉やすきち いや、必要ひつようですよ。若わかい外交がいこう官の月給げっきゅうなどは高たかの知れたものですからね。

主筆しゅひつ じゃ華族かぞくの息子むすこにおしなさい。もっとも華族かぞくならば伯爵はくしゃくか子爵ししゃくですね。どう云いうものか公爵こうしゃくや侯爵こうしゃくは余あまり小説しょうせつには出て来ないようです。

保吉やすきち それは伯爵はくしゃくの息子むすこでもかまいません。とにかく西洋間ようまさえあれば好いいのです。その西洋間ようまか、銀座ぎんざ通とおりか、音楽おんがく会かを第一だいいち回にするのですから。……しかし妙子たえこは――これは女主人公じょしゅじんこうの名前なまいですよ。――音楽家がくけの達雄たつおと懇意こんいになった以後いご、次第しだいにある不安ふあんを感かんじ出だすのです。達雄たつおは妙子たえこを愛している、――そう女主人しゅじん公は直覚ちょっかくするのですね。のみならずこの不安ふあんは一日ひましにだんだん高たかまるばかりなのです。

主筆しゅひつ 達雄たつおはどう云いう男なのですか?

保吉やすきち 達雄たつおは音楽おんがくの天才てんさいです。ロオランの書いたジャン・クリストフとワッセルマンの書いたダニエル・ノオトハフトとを一丸いちがんにしたような天才てんさいです。が、まだ貧乏びんぼうだったり何かするために誰にも認したためられていないのですがね。これは僕の友人ゆうじんの音楽家がくけをモデルにするつもりです。もっとも僕の友人ゆうじんは美男びなんですが、達雄たつおは美男びなんじゃありません。顔は一見いちげんゴリラに似た、東北とうほく生れの野蛮人やばんじんなのです。しかし目だけは天才てんさいらしい閃ひらめきを持っているのですよ。彼かの目は一塊いっかいの炭火すみびのように不断ふだんの熱を孕はらんでいる。――そう云いう目をしているのですよ。

主筆しゅひつ 天才てんさいはきっと受うけましょう。

保吉やすきち しかし妙子たえこは外交がいこう官の夫に不足ふそくのある訣わけではないのです。いや、むしろ前よりも熱烈ねつれつに夫を愛しているのです。夫もまた妙子たえこを信じている。これは云いうまでもないことでしょう。そのために妙子たえこの苦しみは一層いっそうつのるばかりなのです。

主筆しゅひつ つまりわたしの近代きんだい的と云いうのはそう云いう恋愛れんあいのことですよ。

保吉やすきち 達雄たつおはまた毎日まいにち電燈でんとうさえつけば、必かならず西洋間ようまへ顔を出だすのです。それも夫のいる時ならばまだしも苦労くろうはないのですが、妙子たえこのひとり留守るすをしている時にもやはり顔を出だすのでしょう。妙子たえこはやむを得ずそう云いう時にはピアノばかり弾ひかせるのです。もっとも夫のいる時でも、達雄たつおはたいていピアノの前へ坐らないことはないのですが。

主筆しゅひつ そのうちに恋愛れんあいに陥おちいるのですか?

保吉やすきち いや、容易たやすいに陥らないのです。しかしある二月の晩、達雄たつおは急にシュウベルトの「シルヴィアに寄よする歌」を弾はじきはじめるのです。あの流ながれる炎ほのおのように情熱じょうねつの籠こもった歌ですね。妙子たえこは大おおきい椰子やしの葉の下にじっと耳を傾けている。そのうちにだんだん達雄たつおに対たいする彼女かのじょの愛を感かんじはじめる。同時どうじにまた目の前へ浮かび上った金色こんじきの誘惑ゆうわくを感かんじはじめる。もう五分、――いや、もう一分いちぶんたちさえすれば、妙子たえこは達雄たつおの腕かいなの中へ体を投なげていたかも知れません。そこへ――ちょうどその曲の終おわりかかったところへ幸い主人しゅじんが帰って来くるのです。

主筆しゅひつ それから?

保吉やすきち それから一週間しゅうかんばかりたった後のち、妙子たえこはとうとう苦しさに堪え兼ね、自殺じさつをしようと決心けっしんするのです。が、ちょうど妊娠にんしんしているために、それを断行だんこうする勇気ゆうきがありません。そこで達雄たつおに愛されていることをすっかり夫に打うち明あけるのです。もっとも夫を苦しめないように、彼女かのじょも達雄たつおを愛していることだけは告白せずにしまうのですが。

主筆しゅひつ それから決闘けっとうにでもなるのですか?

保吉やすきち いや、ただ夫は達雄たつおの来た時に冷かに訪問ほうもんを謝絶しゃぜつするのです。達雄たつおは黙然もくねんと唇くちびるを噛んだまま、ピアノばかり見つめている。妙子たえこは戸の外に佇たたずんだなりじっと忍しのび泣なきをこらえている。――その後のち二月ふたつきとたたないうちに、突然とつぜん官命かんめいを受けた夫は支那しなの漢口ハンカオの領事りょうじ館へ赴任ふにんすることになるのです。

主筆しゅひつ 妙子たえこも一いっしょに行ゆくのですか?

保吉やすきち 勿論もちろん一いっしょに行ゆくのです。しかし妙子たえこは立だつ前に達雄たつおへ手紙てがみをやるのです。「あなたの心には同情どうじょうする。が、わたしにはどうすることも出来しゅったいない。お互に運命うんめいだとあきらめましょう。」――大体たいそう云いう意味いみですがね。それ以来いらい妙子たえこは今日きょうまでずっと達雄たつおに会わないのです。

主筆しゅひつ じゃ小説しょうせつはそれぎりですね。

保吉やすきち いや、もう少すこし残っているのです。妙子たえこは漢口ハンカオへ行った後のちも、時々達雄たつおを思おもい出だすのですね。のみならずしまいには夫よりも実は達雄たつおを愛していたと考かんがえるようになるのですね。好いいですか? 妙子たえこを囲んでいるのは寂さびしい漢口ハンカオの風景ふうけいですよ。あの唐とうの崔さいこうの詩に「晴川歴歴せいせんれきれき漢陽樹かんようじゅ 芳草萋萋ほうそうせいせい鸚鵡洲おうむしゅう」と歌われたことのある風景ふうけいですよ。妙子たえこはとうとうもう一度ひとたび、――一年ひととせばかりたった後のちですが、――達雄たつおへ手紙てがみをやるのです。「わたしはあなたを愛していた。今でもあなたを愛している。どうか自みずから欺あざむいていたわたしを可哀かわいそうに思って下さい。」――そう云いう意味いみの手紙てがみをやるのです。その手紙てがみを受けとった達雄たつおは……

主筆しゅひつ 早速さっそく支那しなへ出でかけるのでしょう。

保吉やすきち とうていそんなことは出来しゅったいません。何なにしろ達雄たつおは飯を食くうために、浅草あさくさのある活動かつどう写真しゃしん館のピアノを弾ひいているのですから。

主筆しゅひつ それは少すこし殺風景さっぷうけいですね。

保吉やすきち 殺風景さっぷうけいでも仕かたはありません。達雄たつおは場末ばすえのカフェのテエブルに妙子たえこの手紙てがみの封を切ぎるのです。窓の外の空は雨になっている。達雄たつおは放心ほうしんしたようにじっと手紙てがみを見つめている。何だかその行ぎょうの間あいだに妙子たえこの西洋間せいようまが見まみえるような気がする。ピアノの蓋ふたに電燈でんとうの映った「わたしたちの巣」が見まみえるような気がする。……

主筆しゅひつ ちょっともの足りない気もしますが、とにかく近来きんらいの傑作けっさくですよ。ぜひそれを書いて下さい。

保吉やすきち 実はもう少すこしあるのですが。

主筆しゅひつ おや、まだおしまいじゃないのですか?

保吉やすきち ええ、そのうちに達雄たつおは笑わらい出だすのです。と思うとまた忌いまいましそうに「畜生ちくしょう」などと怒鳴どなり出だすのです。

主筆しゅひつ ははあ、発狂はっきょうしたのですね。

保吉やすきち 何、莫迦莫迦ばかばかしさに業ごうを煮にやしたのです。それは業を煮にやすはずでしょう。元来がんらい達雄たつおは妙子たえこなどを少すこしも愛したことはないのですから。……

主筆しゅひつ しかしそれじゃ。……

保吉やすきち 達雄たつおはただ妙子たえこの家うちへピアノを弾はじきたさに行ったのですよ。云わばピアノを愛しただけなのですよ。何なにしろ貧まずしい達雄たつおにはピアノを買かう金などはないはずですからね。

主筆しゅひつ ですがね、堀川ほりかわさん。

保吉やすきち しかし活動かつどう写真しゃしん館のピアノでも弾いていられた頃はまだしも達雄たつおには幸福こうふくだったのです。達雄たつおはこの間の震災しんさい以来いらい、巡査じゅんさになっているのですよ。護憲運動ごけんうんどうのあった時などは善良ぜんりょうなる東京とうきょう市民しみんのために袋叩ふくろだたきにされているのですよ。ただ山やまの手ての巡回じゅんかい中、稀まれにピアノの音ねでもすると、その家の外に佇たたずんだまま、はかない幸福こうふくを夢ゆめみているのですよ。

主筆しゅひつ それじゃ折角せっかくの小説しょうせつは……

保吉やすきち まあ、お聞ききなさい。妙子たえこはその間も漢口ハンカオの住すまいに不相変あいかわらず達雄たつおを思っているのです。いや漢口ハンカオばかりじゃありません。外交がいこう官の夫の転任てんにんする度に、上海シャンハイだの北京ペキンだの天津テンシンだのへ一時いちじの住すまいを移しながら、不相変あいかわらず達雄たつおを思っているのです。勿論もちろんもう震災しんさいの頃には大勢おおぜいの子こもちになっているのですよ。ええと、――年児としごに双児ふたごを生んだものですから、四人の子こもちになっているのですよ。おまけにまた夫はいつのまにか大酒飲さけのみになっているのですよ。それでも豚ぶたのように肥ふとった妙子たえこはほんとうに彼女かのじょと愛し合ったものは達雄たつおだけだったと思っているのですね。恋愛れんあいは実際じっさい至上しじょうなりですね。さもなければとうてい妙子たえこのように幸福こうふくになれるはずはありません。少すこしくとも人生じんせいのぬかるみを憎にくまずにいることは出来しゅったいないでしょう。――どうです、こう云いう小説しょうせつは?

主筆しゅひつ 堀川ほりかわさん。あなたは一体いったい真面目まじめなのですか?

保吉やすきち ええ、勿論もちろん真面目まじめです。世間せけんの恋愛れんあい小説しょうせつを御覧ごらんなさい。女主人公じょしゅじんこうはマリアでなければクレオパトラじゃありませんか? しかし人生じんせいの女主人しゅじん公は必かならずしも貞女ていじょじゃないと同時どうじに、必かならずしもまた婬婦いんぷでもないのです。もし人の好いい読者どくしゃの中うちに、一人ひとりでもああ云いう小説しょうせつを真まに受うける男女なんにょがあって御覧ごらんなさい。もっとも恋愛れんあいの円満えんまんに成就じょうじゅした場合ばあいは別問題もんだいですが、万一まんいち失恋しつれんでもした日には必かならず莫迦莫迦ばかばかしい自己犠牲じこぎせいをするか、さもなければもっと莫迦莫迦ばかばかしい復讐ふくしゅう的精神せいしんを発揮はっきしますよ。しかもそれを当事とうじ者自身おのれは何か英雄えいゆう的行為こういのようにうぬ惚ぼれ切ってするのですからね。けれどもわたしの恋愛れんあい小説しょうせつには少すこしもそう云いう悪影響えいきょうを普及ふきゅうする傾向けいこうはありません。おまけに結末けつまつは女主人しゅじん公の幸福こうふくを讃美さんびしているのです。

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Where this text comes from

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First published
「婦人グラフ」1924(大正13)年4月
Source edition (底本)
底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房


   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行

   1995(平成7)年4月10日第6刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房

   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

入力:j.utiyama

校正:かとうかおり

1999年1月8日公開

2004年3月10日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
j.utiyama
Proofread by (校正)
かとうかおり

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