Nihoner

芥川竜之介 Ryunosuke Akutagawa 1892.03.01〜1927.07.24

アグニの神

アグニのかみ

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一

支那シナの上海シャンハイの或ある町です。昼でも薄暗うすくらい或家の二階にかいに、人相にんそうの悪わるい印度インド人の婆さんが一人ひとり、商人あきゅうどらしい一人ひとりの亜米利加アメリカ人と何か頻しきりに話はなし合あいっていました。

「実は今度こんどもお婆さんに、占うらないを頼たのみに来たのだがね、――」

亜米利加あめりか人はそう言いながら、新あたらしい巻煙草まきたばこへ火をつけました。

「占うらないですか? 占うらないは当分とうぶん見ないことにしましたよ」

婆さんは嘲あざけるように、じろりと相手あいての顔を見ました。

「この頃ころは折角せっかく見て上あげても、御礼さえ碌ろくにしない人が、多くなって来ましたからね」

「そりゃ勿論もちろん御礼をするよ」

亜米利加あめりか人は惜しげもなく、三百さんびゃく弗ドルの小切手こぎってを一枚、婆さんの前へ投なげてやりました。

「差当りこれだけ取って置おくさ。もしお婆さんの占うらないが当れば、その時は別に御礼をするから、――」

婆さんは三百さんびゃく弗の小切手こぎってを見みると、急に愛想あいそがよくなりました。

「こんなに沢山頂さんちょういては、反かえって御気きの毒どくですね。――そうして一体いったい又あなたは、何を占ってくれろとおっしゃるんです?」

「私わたしが見て貰もらいたいのは、――」

亜米利加あめりか人は煙草たばこを啣くわえたなり、狡猾こうかつそうな微笑えみを浮べました。

「一体いったい日米にちべい戦争せんそうはいつあるかということなんだ。それさえちゃんとわかっていれば、我々商人あきゅうどは忽たちまちの内に、大金儲おおがねもうけが出来できるからね」

「じゃ明日あしたいらっしゃい。それまでに占って置いて上あげますから」

「そうか。じゃ間違まちがいのないように、――」

印度いんど人の婆さんは、得意とくいそうに胸を反そらせました。

「私の占うらないは五十ごじゅう年来ねんらい、一度ひとたびも外はずれたことはないのですよ。何なにしろ私のはアグニの神が、御自身おのれ御告げをなさるのですからね」

亜米利加あめりか人が帰ってしまうと、婆さんは次の間まの戸口ここうへ行って、

「恵蓮えれん。恵蓮」と呼び立てました。

その声に応じて出て来たのは、美うつくしい支那しな人の女おんなの子こです。が、何か苦労くろうでもあるのか、この女おんなの子この下しもぶくれの頬ほおは、まるで蝋ろうのような色をしていました。

「何を愚図々々ぐずぐずしているんだえ? ほんとうにお前まえ位、ずうずうしい女はありゃしないよ。きっと又台所だいどころで居睡いねむりか何かしていたんだろう?」

恵蓮はいくら叱しかられても、じっと俯向うつむいたまま黙っていました。

「よくお聞ききよ。今夜こんやは久しぶりにアグニの神へ、御伺うかがいを立たてるんだからね、そのつもりでいるんだよ」

女おんなの子こはまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙あげました。

「今夜こんやですか?」

「今夜こんやの十二とうに時。好いいかえ? 忘わすれちゃいけないよ」

印度いんど人の婆さんは、脅おどすように指を挙あげました。

「又お前まえがこの間のように、私に世話せわばかり焼かせると、今度こんどこそお前まえの命はないよ。お前まえなんぞは殺そうと思えば、雛ひよっ仔この頸くびを絞しめるより――」

こう言いかけた婆さんは、急に顔をしかめました。ふと相手あいてに気がついて見みると、恵蓮はいつか窓際まどぎわに行って、丁度ちょうど明あかるいていた硝子ガラス窓から、寂さびしい往来おうらいを眺ながめているのです。

「何を見ているんだえ?」

恵蓮は愈いよいよ色を失って、もう一度ひとたび婆さんの顔を見上げました。

「よし、よし、そう私を莫迦ばかにするんなら、まだお前まえは痛いたい目に会い足りないんだろう」

婆さんは眼を怒いからせながら、そこにあった箒ほうきをふり上げました。

丁度ちょうどその途端とたんです。誰か外へ来たと見えて、戸を叩たたく音が、突然とつぜん荒々しく聞え始はじめました。

二

その日のかれこれ同おんなじ時刻じこくに、この家の外を通りかかった、年の若わかい一人ひとりの日本人ほんにんがあります。それがどう思ったのか、二階にかいの窓から顔を出した支那しな人の女おんなの子こを一目いちもく見みると、しばらくは呆気あっけにとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。

そこへ又通りかかったのは、年をとった支那しな人の人力じんりき車夫しゃふです。

「おい。おい。あの二階にかいに誰が住んでいるか、お前まえは知っていないかね?」

日本人ほんにんはその人力じんりき車夫しゃふへ、いきなりこう問といかけました。支那しな人は楫棒かじぼうを握ったまま、高だかい二階にかいを見上げましたが、「あすこですか? あすこには、何とかいう印度いんど人の婆さんが住んでいます」と、気味きみ悪そうに返事へんじをすると、匆々そうそう行きそうにするのです。

「まあ、待ってくれ。そうしてその婆さんは、何を商売しょうばいにしているんだ?」

「占うらない者しゃです。が、この近所きんじょの噂うわさじゃ、何でも魔法まほうさえ使つかうそうです。まあ、命が大事だいじだったら、あの婆さんの所なぞへは行ぎょうかない方が好よいようですよ」

支那しな人の車夫しゃふが行ぎょうってしまってから、日本人ほんにんは腕を組んで、何か考かんがえているようでしたが、やがて決心けっしんでもついたのか、さっさとその家の中へはいって行きました。すると突然とつぜん聞えて来たのは、婆さんの罵ののしる声に交った、支那しな人の女おんなの子この泣なき声ごえです。日本人ほんにんはその声を聞きくが早はやいか、一股ひとまたに二三にさん段ずつ、薄暗うすくらい梯子はしごを駈かけ上りました。そうして婆さんの部屋へやの戸を力一りきいちぱい叩き出しました。

戸は直すぐに開ひらきました。が、日本人ほんにんが中へはいって見みると、そこには印度いんど人の婆さんがたった一人立じんりつっているばかり、もう支那しな人の女おんなの子こは、次つぎの間まへでも隠がくれたのか、影も形も見当あたりません。

「何か御用ですか?」

婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手あいての顔を見ました。

「お前まえさんは占うらない者だろう?」

日本人ほんにんは腕を組んだまま、婆さんの顔を睨にらみ返しました。

「そうです」

「じゃ私の用なぞは、聞かなくてもわかっているじゃないか? 私も一つお前まえさんの占うらないを見て貰もらいにやって来たんだ」

「何を見て上あげるんですえ?」

婆さんは益ますます疑わしそうに、日本人ほんにんの容子ようすを窺うかがっていました。

「私の主人しゅじんの御嬢さんが、去年こぞの春行方ゆくえ知れずになった。それを一つ見て貰もらいたいんだが、――」

日本人ほんにんは一句いっく一句いっく、力を入れて言ゆうのです。

「私の主人しゅじんは香港ホンコンの日本にぽん領事りょうじだ。御嬢さんの名は妙子たえこさんとおっしゃる。私は遠藤えんどうという書生しょせいだが――どうだね? その御嬢さんはどこにいらっしゃる」

遠藤えんどうはこう言いながら、上衣うわぎの隠かくしに手を入いれると、一挺ちょうのピストルを引ひき出でしました。

「この近所きんじょにいらっしゃりはしないか? 香港ほんこんの警察けいさつ署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫さらったのは、印度いんど人らしいということだったが、――隠かくし立だてをすると為ためにならんぞ」

しかし印度いんど人の婆さんは、少すこしも怖こわがる気色けしきが見えません。見えないどころか唇くちびるには、反って人を莫迦ばかにしたような微笑えみさえ浮べているのです。

「お前まえさんは何を言うんだえ? 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」

「嘘うそをつけ。今その窓から外を見ていたのは、確たしかに御嬢さんの妙子たえこさんだ」

遠藤えんどうは片手かたでにピストルを握ったまま、片手かたでに次つぎの間まの戸口ここうを指さしました。

「それでもまだ剛情を張はるんなら、あすこにいる支那しな人をつれて来い」

「あれは私の貰もらい子ごだよ」

婆さんはやはり嘲あざけるように、にやにや独ひとり笑っているのです。

「貰もらい子ごか貰もらい子ごでないか、一目いちもく見りゃわかることだ。貴様きさまがつれて来なければ、おれがあすこへ行って見みる」

遠藤えんどうが次つぎの間まへ踏みこもうとすると、咄嗟とっさに印度いんど人の婆さんは、その戸口ここうに立ち塞ふさがりました。

「ここは私の家うちだよ。見ず知らずのお前まえさんなんぞに、奥へはいられてたまるものか」

「退どけ。退かないと射殺うちころすぞ」

遠藤えんどうはピストルを挙あげました。いや、挙げようとしたのです。が、その拍子ひょうしに婆さんが、鴉からすの啼なくような声を立てたかと思おもうと、まるで電気でんきに打たれたように、ピストルは手から落おちてしまいました。これには勇み立たった遠藤えんどうも、さすがに胆きもをひしがれたのでしょう、ちょいとの間は不思議ふしぎそうに、あたりを見廻していましたが、忽ち又勇気ゆうきをとり直なおすと、

「魔法まほう使め」と罵ののしりながら、虎とらのように婆さんへ飛びかかりました。

が、婆さんもさるものです。ひらりと身を躱かわすが早はやいか、そこにあった箒ほうきをとって、又掴つかみかかろうとする遠藤えんどうの顔へ、床ゆかの上の五味ごみを掃きかけました。すると、その五味ごみが皆火花ひばなになって、眼といわず、口といわず、ばらばらと遠藤えんどうの顔へ焼やきつくのです。

遠藤えんどうはとうとうたまり兼かねて、火花ひばなの旋風つむじかぜに追われながら、転ころげるように外へ逃にげ出でるしました。

三

その夜よの十二とうに時に近い時分じぶん、遠藤えんどうは独ひとり婆さんの家の前にたたずみながら、二階にかいの硝子しょうし窓に映うつる火影ほかげを口惜くやしそうに見つめていました。

「折角せっかく御嬢さんの在ありかをつきとめながら、とり戻もどすことが出来しゅったいないのは残念ざんねんだな。一そ警察けいさつへ訴えようか? いや、いや、支那しなの警察けいさつが手てぬるいことは、香港ほんこんでもう懲こり懲ごりしている。万一まんいち今度こんども逃にげられたら、又探さがすのが一苦労くろうだ。といってあの魔法まほう使には、ピストルさえ役に立たないし、――」

遠藤えんどうがそんなことを考かんがえていると、突然とつぜん高だかい二階にかいの窓から、ひらひら落おちて来た紙切かみきれがあります。

「おや、紙切かみきれが落おちて来たが、――もしや御嬢さんの手紙てがみじゃないか?」

こう呟つぶやいた遠藤えんどうは、その紙切かみきれを、拾い上げながらそっと隠した懐中かいちゅう電燈でんとうを出だして、まん円まるな光に照らして見ました。すると果はたして紙切かみきれの上には、妙子たえこが書いたのに違いない、消えそうな鉛筆えんぴつの跡があります。

「遠藤えんどうサン。コノ家うちノオ婆サンハ、恐シイ魔法まほう使デス。時々真夜中やちゅうニ私わたくしノ体ヘ、『アグニ』トイウ印度いんどノ神ヲ乗リ移ラセマス。私ハソノ神ガ乗リ移ッテイル間中まなか、死ンダヨウニナッテイルノデス。デスカラドンナ事ガ起ルカ知リマセンガ、何デモオ婆サンノ話デハ、『アグニ』ノ神ガ私ノ口ヲ借リテ、イロイロ予言よげんヲスルノダソウデス。今夜こんやモ十二とうに時ニハオ婆サンガ又『アグニ』ノ神ヲ乗リ移ラセマス。イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、気ガ遠クナッテシマウノデスガ、今夜こんやハソウナラナイ内ニ、ワザト魔法まほうニカカッタ真似まねヲシマス。ソウシテ私ヲオ父様ノ所ヘ返サナイト『アグニ』ノ神ガオ婆サンノ命ヲトルト言ッテヤリマス。オ婆サンハ何ヨリモ『アグニ』ノ神ガ怖こわイノデスカラ、ソレヲ聞ケバキット私ヲ返スダロウト思イマス。ドウカ明日あしたノ朝モウ一度ひとたび、オ婆サンノ所ヘ来テ下サイ。コノ計略けいりゃくノ外ほかニハオ婆サンノ手カラ、逃ゲ出スミチハアリマセン。サヨウナラ」

遠藤えんどうは手紙てがみを読よみ終おわると、懐中かいちゅう時計とけいを出だして見ました。時計とけいは十二とうに時五分前です。

「もうそろそろ時刻じこくになるな、相手あいてはあんな魔法まほう使だし、御嬢さんはまだ子供こどもだから、余程よほど運が好すくないと、――」

遠藤えんどうの言葉ことばが終らない内に、もう魔法まほうが始はじまるのでしょう。今まで明るかった二階にかいの窓は、急にまっ暗くらになってしまいました。と同時どうじに不思議ふしぎな香こうの匂においが、町の敷石しきいしにも滲しみる程、どこからか静しずかに漂って来ました。

四

その時あの印度いんど人の婆さんは、ランプを消した二階にかいの部屋へやの机に、魔法まほうの書物しょもつを拡ひろげながら、頻しきりに呪文じゅもんを唱えていました。書物しょもつは香炉こうろの火の光に、暗ぐらい中でも文字もんじだけは、ぼんやり浮き上らせているのです。

婆さんの前には心配そうな恵蓮が、――いや、支那しな服を着せられた妙子たえこが、じっと椅子いすに坐っていました。さっき窓から落した手紙てがみは、無事ぶじに遠藤えんどうさんの手へはいったであろうか? あの時往来おうらいにいた人影ひとかげは、確に遠藤えんどうさんだと思ったが、もしや人違ひとちがいいではなかったであろうか?――そう思おもうと妙子たえこは、いても立ってもいられないような気がして来ます。しかし今うっかりそんな気けぶりが、婆さんの眼にでも止まったが最後さいご、この恐おそろしい魔法まほう使つかいの家から、逃げ出そうという計略けいりゃくは、すぐに見破られてしまうでしょう。ですから妙子たえこは一生いっしょう懸命けんめいに、震ふるえる両手りょうてを組み合せながら、かねてたくんで置いた通とおり、アグニの神が乗り移ったように、見みせかける時の近づくのを今か今かと待っていました。

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Where this text comes from

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First published
「赤い鳥」1921(大正10)年1月、2月
Source edition (底本)
底本:「蜘蛛の糸・杜子春」新潮文庫、新潮社


   1968(昭和43)年11月15日発行

   1989(平成元)年5月30日46刷

入力:蒋龍

校正:noriko saito

2005年1月7日作成

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
蒋龍
Proofread by (校正)
noriko saito

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