Nihoner

寺田寅彦 Torahiko Terada 1878.11.28〜1935.12.31

ある探偵事件

あるたんていじけん

  • Steady
  • 1,818 characters
  • about 5 min
  • 1 section
  • Public domain

数年前に「ボーヤ」と名づけた白毛しらがの雄猫おすねこが病死びょうししてから以来いらいしばらくわが家やの縁側えんがわに猫というものの姿を見ない月日がっぴが流ながれた。先年せんねん、犬養いぬかい内閣ないかくが成立せいりつしたとおなじ日に一羽のローラーカナリヤが迷い込んで来たのを捕えて飼っているうち、ある朝ちょっとの不注意ちゅういで逃がしてしまった。そのおなじ日の夕方ゆうがた帰宅きたくして見みると茶ちゃの間まの真中まなかに一匹の真白まっしろな小猫こねこが坐り込んですましてお化粧けわいをしていた。家人かじんに聞いてみると、どこからともなく入り込んで来て、そうして、すっかりわがもの顔に家中かちゅうを歩き廻っているそうである。それが不思議ふしぎなことには死んだボーヤの小ちいさい時とほとんどそっくりでただ尻尾しっぽが長くてその尻尾しっぽに雉毛きじげの紋様もんようがあるだけの相違そういである。どこかの飼猫かいねこの子が捨てられたか迷って来たかであるに相違そういないが、とにかくそのままに居着いてしまって「白」と命名めいめいされた。珍しく鷹揚おうような猫で、ある日犬に追われて近所きんじょの家の塀と塀との間に遁げ込んだまま、一日ついたちそこにしゃがんでいたのを、やっと捜し出して連ずれて来たこともあった。スマラグド色の眼と石竹せきちく色の唇をもつこの雄猫おすねこの風貌ふうぼうにはどこかエキゾチックな趣がある。

死んだ白猫しろねこの母は宅の飼猫かいねこで白に雉毛の斑点はんてんを多分たぶんにもっていたが、ことによると前の白猫しろねこと今度こんどの「白」とは父親ちちおやがおなじであるか、ことによると「白」が「ボーヤ」の子であるかもしれないと思われた。それについて思おもい当あたるのは、一と頃ときどき宅へ忍び込んで来くる猫の中に一匹のアンゴラ種らしい立派りっぱな白猫しろねこがあった、それが、もしかすると「白」の父親ちちおやか祖父そふではないかと思われるのであった。

つい近ちかごろになってある新聞しんぶんにいろいろなペットの話が連載れんさいされているうちに知名ちめいの某家の猫のことが出ていて、その三匹の猫の写真しゃしんが掲載けいさいされていた。そのうちの一匹がどうも前述ぜんじゅつのいわゆるアンゴラに似ているように思われた。これだけでは何も問題もんだいにはならないが、しかしその某家と同姓どうせいの家が宅から二、三町のところにあるから、そこで一つの問題もんだいが成立たったのである。その問題もんだいは型式的フォーマルには刑事けいじ探偵たんていが偶たまには出でくわす問題もんだいとおなじようなものかと思われた。

問題もんだいを分析ぶんせきするとつぎのようになる。

問題もんだい。(一)宅の近所きんじょのA家は新聞しんぶん所載しょさいのA家と同一どういつか。(二)同一どういつならばその家の猫Bと、宅の庭で見みかけた猫Cと同一どういつか。(三)そうだとすれば宅の白猫しろねこDはそのB=C猫の血族けつぞくか。

これに対して与えられた事実与件データは(1)Aという名前なまいの一致いっち。ただし近所きんじょのA家に西洋猫ようねこがいるかどうかは不明ふめい。(2)新聞しんぶんの写真しゃしんのB猫とC猫との肖似。ただし記憶きおくだけで他に実証じっしょうなし。(3)BCとDとの幾分いくぶんの肖似。(4)新聞しんぶん記事きじによると、B猫が不良ふりょうで夜遊よあそび昼遊あそびをして困こまるという飼主かいぬし夫人ふじんの証言しょうげん。これだけである。この(1)(2)(3)(4)いずれも当面とうめんの問題もんだいに対しては実げに貧弱ひんじゃくなデータで、これだけからなんらの確たしからしい結論けつろんも導き出せないことは科学者がくしゃを待たずとも明白めいはくなことである。しかし、われわれの「人情にんじょう」と「いわゆる常識じょうしき」はこの(1)(2)(3)(4)から(一)(二)(三)を肯定こうていしようとする強こわい誘惑ゆうわくを醸成じょうせいする。

その後、出入ではいりの魚屋さかなやの証言しょうげんによって近所きんじょのA家にもやはり白じろい洋種ようしゅの猫がいるという一つの新あたらしい有力なデータを加くわえることは出来しゅったいた。しかし、東京中きょうちゅうで西洋猫ようねこを飼っているA姓の人が何人なにじんあるか不明ふめいであるから(一)の問題もんだいはやはり不明ふめいである。ただ、近所きんじょのA家の猫と宅の猫との血族けつぞく関係かんけいに関しては幾分いくぶんのプロバビリチが出来しゅったいていた訳である。

下手しもての探偵たんてい小説しょうせつには(1)(2)(3)(4)だけから(一)(二)(三)を誘導ゆうどうするようなのがありはしないか。おなじような論理ろんりの錯誤さくごから実際じっさいの刑事けいじ事件じけんについて無実むじつの罪が成立せいりつする恐おそれが万一まんいちありはしないか。そんなことを考かんがえさせられるのであった。

近ちかごろ、某大官たいかんが、十年前に、六百ろっぴゃく年昔の逆賊ぎゃくぞくを弁護べんごしたことがあったために、現職げんしょくを辞じするのやむなきに立ち至ったという事件じけんが新聞しんぶん紙上しじょうを賑わした。なるほど、十年前の甲某が今日きょうの甲某と同一人ひとりだということについては確実かくじつな証人しょうにんが無数むしゅにある。従ってこの問題もんだいと上述じょうじゅつの「猫の場合ばあい」とは全然ぜんぜん何どの関係かんけいもない別種類しゅるいの事柄ことがらである。何どの関係かんけいもないことであるにもかかわらず、ふとした錯覚さっかくで何かしら関係かんけいがあるような気がしたのは、たしかに自分じぶんの頭の迷誤アベレーションである。それで、これも不思議ふしぎな錯覚さっかくの一例として後日ごにちの参考さんこうのためについでに書添えておくこととする。

(昭和しょうわ九年二月『大阪おうさか毎日まいにち新聞しんぶん』)

1 / 1 End of the book

Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
「大阪毎日新聞」1934(昭和9)年2月14日
Source edition (底本)
底本:「寺田寅彦全集 第二巻」岩波書店


   1997(平成9)年1月9日発行

入力:Nana ohbe

校正:川向直樹

2004年8月22日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
Typed by (入力)
Nana ohbe
Proofread by (校正)
川向直樹

Aozora library card for this work ↗ · How Nihoner sources and licenses its content

More by 寺田寅彦

Browse the whole library →