Nihoner

芥川竜之介 Ryunosuke Akutagawa 1892.03.01〜1927.07.24

或敵打の話

あるかたきうちのはなし

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発端

肥後ひごの細川家ほそかわけの家中かちゅうに、田岡甚太夫たおかじんだゆうと云いう侍さむらいがいた。これは以前いぜん日向ひゅうがの伊藤いとう家の浪人ろうにんであったが、当時とうじ細川ほそかわ家の番頭ばんがしらに陞のぼっていた内藤三左衛門ないとうさんざえもんの推薦すいせんで、新知しんち百五十ごじゅう石こくに召し出されたのであった。

ところが寛文かんぶん七年の春、家中かちゅうの武芸ぶげいの仕合しあいがあった時、彼は表芸おもてげいの槍術そうじゅつで、相手あいてになった侍を六人まで突つき倒たおした。その仕合しあいには、越中守綱利えっちゅうのかみつなとし自身おのれも、老職ろうしょく一同いちどうと共に臨んでいたが、余あまり甚太夫じんだゆうの槍が見事みごとなので、さらに剣術けんじゅつの仕合しあいをも所望しょもうした。甚太夫じんだゆうは竹刀しないを執とって、また三人の侍を打ち据えた。四人目ひとめには家中かちゅうの若侍わかざむらいに、新陰流しんかげりゅうの剣術けんじゅつを指南しなんしている瀬沼兵衛せぬまひょうえが相手あいてになった。甚太夫じんだゆうは指南しなん番の面目めんぼくを思って、兵衛ひょうえに勝を譲ろうと思った。が、勝を譲ったと云いう事が、心あるものには分わかるように、手際てぎわよく負まけたいと云いう気もないではなかった。兵衛ひょうえは甚太夫じんだゆうと立合いながら、そう云いう心こころもちを直覚ちょっかくすると、急に相手あいてが憎にくくなった。そこで甚太夫じんだゆうがわざと受太刀うけだちになった時、奮然ふんぜんと一本いっぽん突きを入れた。甚太夫じんだゆうは強く喉のどを突かれて、仰向あおむけにそこへ倒たおれてしまった。その容子ようすがいかにも見苦しかった。綱利つなとしは彼かの槍術そうじゅつを賞しながら、この勝負しょうぶがあった後のちは、甚はなはだ不興気ふきょうげな顔をしたまま、一言いちごんも彼を犒ねぎらわなかった。

甚太夫じんだゆうの負まけざまは、間もなく蔭口かげぐちの的になった。「甚太夫じんだゆうは戦場せんじょうへ出て、槍の柄を切り折られたら何とする。可哀かわいや剣術けんじゅつは竹刀しないさえ、一人前いちにんまえには使えないそうな。」――こんな噂うわさが誰云いうとなく、たちまち家中かちゅうに広まったのであった。それには勿論もちろん同輩どうはいの嫉妬しっとや羨望せんぼうも交まじっていた。が、彼を推挙すいきょした内藤三左衛門ないとうさんざえもんの身になって見みると、綱利の手前てまえへ対しても黙っている訳には行ぎょうかなかった。そこで彼は甚太夫じんだゆうを呼んで、「ああ云いう見苦みぐるしい負を取られては、拙者せっしゃの眼がね違ちげいばかりではすまされぬ。改あらためて三本みもと勝負しょうぶを致されるか、それとも拙者せっしゃが殿への申訳もうしわけに切腹せっぷくしようか。」とまで激語げきごした。家中かちゅうの噂を聞き流していたのでは、甚太夫じんだゆうも武士もののふが立たなかった。彼はすぐに三左衛門さんざえもんの意を帯して、改あらためて指南しなん番瀬沼兵衛せぬまひょうえと三本みもと勝負しょうぶをしたいと云いう願書ねがいしょを出した。

日ならず二人ふたりは綱利の前で、晴はれの仕合しあいをする事になった。始はじめは甚太夫じんだゆうが兵衛ひょうえの小手こてを打った。二度目は兵衛ひょうえが甚太夫じんだゆうの面めんを打った。が、三度目にはまた甚太夫じんだゆうが、したたか兵衛ひょうえの小手こてを打った。綱利は甚太夫じんだゆうを賞しょうするために、五十ごじゅう石こくの加増かぞうを命じた。兵衛ひょうえは蚯蚓腫みみずばれになった腕を撫なでながら、悄々すごすご綱利の前を退いた。

それから三四さんし日経ったある雨の夜よ、加納平太郎かのうへいたろうと云いう同家中かちゅうの侍が、西岸寺さいがんじの塀外へいそとで暗打うちに遇あった。平太郎へいたろうは知行ちぎょう二百石ももいしの側役そばやくで、算筆さんぴつに達した老人ろうじんであったが、平生へいぜいの行状ぎょうじょうから推して見ても、恨うらみを受うけるような人物じんぶつでは決けっしてなかった。が、翌日あくるひ瀬沼せぬま兵衛ひょうえの逐天ちくてんした事が知しれると共に、始はじめてその敵かたきが明あきらかになった。甚太夫じんだゆうと平太郎へいたろうとは、年輩ねんぱいこそかなり違っていたが、背恰好せいかっこうはよく似寄っていた。その上定紋じょうもんは二人ふたりとも、同おんなじ丸に抱だき明姜みょうがであった。兵衛ひょうえはまず供の仲間ちゅうげんが、雨の夜路を照らしている提灯ちょうちんの紋に欺あざむかれ、それから合羽かっぱに傘かさをかざした平太郎へいたろうの姿に欺かれて、粗忽そこつにもこの老人ろうじんを甚太夫じんだゆうと誤って殺ころしたのであった。

平太郎へいたろうには当時とうじ十七歳の、求馬もとめと云いう嫡子ちゃくしがあった。求馬もとめは早速さそく公おおやけの許ゆるしを得て、江越喜三郎えごしきさぶろうと云いう若党わかとうと共に、当時とうじの武士もののふの習慣しゅうかん通とおり、敵打かたきうちの旅に上のぼる事になった。甚太夫じんだゆうは平太郎へいたろうの死しに責任せきにんの感を免まぬかれなかったのか、彼もまた後見うしろみのために旅立たびだちたい旨を申もうし出いでた。と同時どうじに求馬もとめと念友ねんゆうの約があった、津崎左近つざきさこんと云いう侍も、同おなじく助太刀すけだちの儀を願ねがい出でした。綱利は奇特きどくの事とあって、甚太夫じんだゆうの願は許ゆるしたが、左近さこの云い分は取とり上あげなかった。

求馬もとめは甚太夫じんだゆう喜三郎きさぶろうの二人ふたりと共に、父平太郎へいたろうの初七日しょなぬかをすますと、もう暖国だんごくの桜は散り過すぎた熊本くまもとの城下しろしたを後にした。

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First published
「雄弁」1920(大正9)年5月
Source edition (底本)
底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房

   1986(昭和61)年12月1日第1刷発行

   1996(平成8)年4月1日第8刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第二巻」筑摩書房

   1971(昭和46)年4月5日初版第1刷発行

初出:「雄弁」

   1920(大正9)年5月

入力:j.utiyama

校正:かとうかおり

1999年1月12日公開

2017年6月4日修正

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Typed by (入力)
j.utiyama
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かとうかおり

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