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江戸川乱歩 Ranpo Edogawa 1894.10.21〜1965.07.28

悪魔の紋章

あくまのもんしょう

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劈頭()の犠牲者

法医ほうい学界がっかいの一権威けんい宗像隆一郎むなかたりゅういちろう博士はかせが、丸まるの内うちのビルディングに宗像むなかた研究けんきゅう室を設もうけ、犯罪はんざい事件じけんの研究けんきゅうと探偵たんていの事業じぎょうを始はじめてからもう数年になる。

同研究けんきゅう室は、普通ふつうの民間みんかん探偵たんていとは違ちげい、其筋そのすじでも手古摺てこずるほどの難事なんじ件でなければ、決けっして手を染めようとはしなかった。所謂いわゆる「迷宮入みやいり」の事件じけんこそ、同研究けんきゅう室の最もっとも歓迎かんげいする研究けんきゅう題目だいもくであった。宗像むなかた博士はかせは、研究けんきゅう室開設かいせつ第一年ひととせにして、すでに二つの難事なんじ件を見事みごとに解決かいけつし、一躍いちやくその名声めいせいを高たかめ、爾来じらい年毎ごとに著名ちょめいの難事なんじ件を処理しょりして、現在げんざいでは、名探偵たんていと云えば、明智小五郎あけちこごろうか宗像むなかた隆一郎りゅういちろうかというほどに、世に知られていた。

天才てんさい明智あけちは、その生活せいかつぶりが飄々ひょうひょうとしていて、何となく捉とらえどころがなく、気に入った事件じけんがあれば、支那しなへでも、印度インドへでも、気軽きがるに飛とび出だして行って、事務所むしょを留守るすにすることも多おおいのに反して、宗像むなかた博士はかせの方は、明智あけちのような天才てんさい的なところはなかったけれど、あくまで堅実けんじつで、科学的がくてきで、東京とうきょうを中心ちゅうしんとする事件じけんに限って手てがけるという、実際じっさい的なやり方であったから、期せずして市民しみんの信頼しんらいを博し、警視けいし庁でも、難事なんじ件が起おこると、一応いちようは必かならず宗像むなかた研究けんきゅう室の意見いけんを徴ちょうするという程になっていた。

事務所むしょなども、明智あけちの方は住宅じゅうたく兼用けんようの書生しょせい流儀りゅうぎであったのに反して、宗像むなかた博士はかせは、家庭かてい生活せいかつと仕事しごととをハッキリ区別べっして、郊外こうがいの住宅じゅうたくから毎日まいにち研究けんきゅう室へ通かよい、博士はかせ夫人ふじんなどは一度ひとたびも研究けんきゅう室へ顔出かおだしをしたことがなく、又研究けんきゅう室の二人ふたりの若わかい助手じょしゅは、一度ひとたびも博士はかせの自宅じたくを訪ねたことがないという、厳格げんかく極きわまるやり口くちであった。

丸まるの内うちの一郭かく、赤煉瓦あかれんが貸事務所むしょ街のとある入口いりぐちに、宗像むなかた研究けんきゅう室の真鍮しんちゅう看板かんばんが光っている。赤煉瓦れんが建ての一階三室みむろが博士はかせの探偵たんてい事務所むしょなのだ。

今、その事務所むしょの石段いしだんを、這はうようにして上って行ゆく、一人ひとりの若わかい背広せびろ服の男がある。二十にじゅう七八しちはち歳であろうか、その辺のサラリー・マンと別に変ったところも見えぬが、ただ異様いようなのは、トントンと駆かけ上のぼるべき石段いしだんを、まるで爬虫類はちゅうるいででもあるように、ヨタヨタと這い上っていることである。急病きゅうびょうでも起おこしたのであろうか、顔色がんしょくは土のように青ざめ、額から鼻の頭にかけて、脂汗あぶらあせが玉をなして吹ふき出だしている。

彼はハッハッと、さも苦しげな息を吐きながら、やっと石段いしだんを昇のぼり、開いたままのドアを通って、階下かいかの一室いっしつに辿たどりつくと、入口いりぐちのガラス張はりのドアに、身体からだをぶッつけるようにして、室内しつないに転がり込んだ。

そこは、宗像むなかた博士はかせの依頼いらい者接見せっけん室で、三方さんぼうの壁の書棚しょだなには博士はかせの博識はくしきを物語ものがたるかの如ごとく、内外うちそとの書籍しょじゃくがギッシリと詰まっている。室しつの中央ちゅうおうには畳一畳敷たたみじき程の大おおきな彫刻ちょうこくつきのデスクが置かれ、それを囲んで、やはり古風こふうな彫刻ちょうこくのある肘掛椅子ひじかけいすや長椅子いすが並んでいる。

「先生せんせい、先生せんせいはどこです。アア、苦くるしい。早く、先生せんせい……」

若わかい男は床の上に倒たおれたまま、喘あえぎ喘ぎ、精一せいいち杯の声をふり絞しぼって叫んだ。

すると、唯ただならぬ物音ものおとと叫さけび声ごえに驚いたのであろう、隣の実験じっけん室へ通つうじるドアが開いて、一人ひとりの男が顔を出した。これも三十さんじゅう歳程に見まみえる若わかい事務じむ員風の洋服ようふく男である。

「オヤッ、木島きじま君じゃないか。どうしたんだ、その顔色がんしょくは?」

彼はいきなり室内しつないに駈け込んで、若者わかものを抱き起した。

「アア、小池こいけ君か。せ、先生せんせいは? ……早く会いたい。……重大じゅうだい事件じけんだ。……ひ、人が殺される。……今夜こんやだ。今夜こんや殺人さつじんが行ぎょうわれる。アア、恐おそろしい。……せ、先生せんせいに……」

「ナニ、殺人さつじん事件じけんだって? 今夜こんやだって? 君はどうしてそれが分ったのだ。一体いったい、誰が殺されるんだ」

小池こいけと呼よばれた若者わかものは、顔色がんしょくを変えて木島きしまの気違きちがいいめいた目を見つめた。

「川手かわての娘だ。……その次は親爺おやじの番だ。みんな、みんなやられるんだ。……せ、先生せんせいは? 早く先生せんせいにこれを。……この中にすっかり書いてある。それを先生せんせいに……」

彼はもがくようにして、胸のポケットを探さぐると、一通いっつうの厚あつぼったい洋封筒ふうとうを取出して、やっとの思おもいで、大おおデスクの端にのせた。そして、次には同おんなじポケットから、何かしら四角しかくな小ちいさい紙包かみずつみを掴つかみ出し、さも大切たいせつそうに握りしめている。

「先生せんせいは今御不在ふざいだよ。三十さんじゅう分もすればお帰がえりになる筈だ。それよりも、君はひどく苦しそうじゃないか。どうしたというんだ」

「あいつに、やられたんだ。毒薬どくやくだ。アア、苦くるしい。水を、水を……」

「よし、今取って来てやるから、待ってろ」

小池こいけは隣室りんしつへ飛んで行って、化学かがく実験じっけん用のビーカーに水を入れて帰って来くると、病人びょうにんを抱かかえるようにして、それを飲ませてやった。

「しっかりしろ。今医者いしゃを呼んでやるから」

彼は又病人びょうにんの側そばを離はなれて、卓上たくじょう電話でんわにしがみつくと、附近ふきんの医院いいんへ至急しきゅう来診らいしんを頼んだ。

「すぐ来くるって。ちょっとの間我慢がまんしろ。だが、一体いったい誰にやられたんだ。誰が君に毒なんか飲ませたんだ」

木島きしまは、半なかば白くなった目を見はって、ゾッとするような恐怖きょうふの表情ひょうじょうを示した。

「あいつだ。……三重さんじゅうの渦巻うずまきだ。……ここに証拠しょうこがある。……こいつが殺人さつじん鬼だ。アア、恐おそろしい」

彼は歯を喰いしばって、もがき苦しみながら、右手みぎてに握った小ちいさな紙包みを示した。

「よし、分った。この中に犯人はんにんの手掛てがかりがあるんだな。しかし、そいつの名は?」

だが、木島きしまは答えなかった。もう両眼りょうがんの虹彩こうさいが上瞼うわまぶたに隠がくれてしまっていた。

「オイ、木島きしま君、木島きしま君、しっかりしろ、名だ。そいつの名を云うんだ」

いくら揺すぶっても、木島きしまの身体しんたいは水母くらげのように手応てごたえがなかった。

可哀想かわいそうに、宗像むなかた研究けんきゅう室の若き助手じょしゅ木島きしまは、捜査そうさ事業じぎょうの犠牲ぎせいとなって、遂ついに無残むざんの最期さいごをとげたのであった。

五分程すると、附近ふきんの医師くすしが来診らいしんしたが、最早もはやや脈搏みゃくはくも鼓動こどうも止った木島きしまを、どうすることも出来しゅったいなかった。

待まち兼ねた宗像むなかた博士はかせが研究けんきゅう室に帰って来たのは、それから四十しじゅう分程のちであった。

博士はかせは見たところ四十しじゅう五六ごろく歳、黒々とした頭髪とうはつを耳の辺で房のように縮らせ、ピンとはねた小ちいさな口髭くちひげ、学者がくしゃ臭く三角さんかくに刈った濃こい顎髯あごひげ、何物なにものをも見透みとうす鷲わしのように鋭するどい目には、黒鼈甲縁くろべっこうぶちのロイド眼鏡めがねをかけ、大柄おうがらなガッシリした身体しんたいを、折目おりめ正ただしい夏のモーニングに包んで、少すこし反そり身になって、大股おうまたに歩を運ぶところ、如何いかにも帝政ていせい独逸ドイツ時代じだいの医学いがく博士はかせという趣おもむきであった。

博士はかせは小池こいけ助手じょしゅから、事の次第しだいを聞きき取とると、痛ましげに愛弟子まなでしのなきがらを見おろしながら、

「実げに気きの毒どくなことをした。木島きしま君の家へは知しらせたかね」

と、小池こいけ助手じょしゅに訊たずねた。

「電報でんぽうを打ちました。やがて駈けつけて来くるでしょう。それから警視けいし庁へも電話でんわしました。中村なかむらさん驚いてました。すぐ来くるということでした」

「ウン、中村なかむら君も僕も、川手かわての事件じけんが、こんなことになろうとは、想像そうぞうもしていなかったからね。中村なかむら君なんか、被害ひがい妄想もうそうだろうって、取り合わなかったくらいだ。それが、木島きしま君がこんな目に合あう程では、余程よほど大物おうものらしいね」

「木島きしま君は、何だか非常ひじょうに怖がっていました。恐おそろしい、恐おそろしいと言いつづけて死んで行きました」

「ウン、そうだろう。予告よこくして殺人さつじんをするくらいの奴やつだから、余程よほど兇悪きょうあくな犯人はんにんに違いない。小池こいけ君、外ほかの事件じけんは放って置いて、今日きょうからこの事件じけんに全力ぜんりょくを尽そう。木島きしま君の敵討かたきうちをしなけりゃならないからね」

話はなしているところへ、慌あわただしい靴音くつおとがして、警視けいし庁の中村なかむら捜査そうさ係長かかりちょうが入って来た。鼠色ねずみいろの背広せびろ姿である。

彼は木島きしまの死体したいを見みると、帽子ぼうしを取って黙礼もくれいしたが、驚おどろきの表情ひょうじょうを隠かくしもせず、宗像むなかた博士はかせを顧かえりみて云った。

「こんなことになろうとは思おもいもよらなかった。油断ゆだんでした。あなたの部下ぶかをこんな目に合あわせて、実げに何とも申訳わけありません」

「イヤ、それはお互たがいです。僕だって、これ程の相手あいてと思えば、木島きしま君一人ひとりに任せてなんぞ置かなかったでしょうからね」

「電話でんわの話では、木島きしま君は何か犯人はんにんの手掛てがかりを持って帰ったということでしたが」

係長かかりちょうが小池こいけ助手じょしゅを振返った。

「エエ、これです。この封筒ふうとうの中に詳しく報告ほうこくを書いて置いたと云っていました」

小池こいけが大デスクの上の例の洋封筒ふうとうを取って差出さしだすのを、宗像むなかた博士はかせが受取うけとりって、裏表うらおもてを調しらべながら呟つぶやいた。

「オヤ、この封筒ふうとうは銀座ぎんざのアトランチスの封筒ふうとうじゃないか。すると、木島きしま君はあのカフェで、用紙ようしと封筒ふうとうを借かりて、これを書いたんだな」

如何いかにも、封筒ふうとうの隅に、カフェ・アトランチスの名が印刷いんさつされていた。

博士はかせは卓上たくじょうの鋏はさみを取って、丁寧ていねいに封筒ふうとうの端を切ぎると、厚あつぼったい書翰箋しょかんせんを抜ぬき出だして、開いて見た。

「オイ、小池こいけ君、確たしかにこれに違ちげいないね? 君は何か思おもい違ちがいをしてやしないかね。それとも、木島きしま君が倒たおれてから、誰かこの部屋へやへ入ったものはなかったかね」

博士はかせが妙な顔をして、小池こいけ助手じょしゅにただした。

「イイエ、僕は一歩かずほもこの部屋へやを出ませんでした。誰も来たものなぞありません。どうかしたのですか。その封筒ふうとうは確たしかに木島きしま君が内ポケットから出だして、そこへ置いたままなんです」

「見給たまえ、これだ」

博士はかせは用箋ようせんを中村なかむら係長かかりちょうと小池こいけ助手じょしゅの前に差出して、パラパラとめくって見せたが、不思議ふしぎなことに、それはただの白紙しらかみの束に過すぎなかった。文字もんじなぞ一字も書いてはないのだ。

「変だなア、まさか木島きしま君が、白紙しらかみを封筒ふうとうに入れて、大切たいせつそうに持って来くる訳わけはないが」

中村なかむら氏が、狐きつねにつままれたような顔をした。

宗像むなかた博士はかせは、唇を噛かんで暫しばらく黙っていたが、突然とつぜん、白紙しらかみの束を紙屑籠かみくずかごに投なげ入いれると、決定けってい的な口調くちょうで云った。

「小池こいけ君、すぐアトランチスへ行って、木島きしま君が用紙ようしと封筒ふうとうを借かりたあとで、誰かと話をしなかったか、同おんなじテーブルに胡乱うろんな奴がいなかったか調しらべてくれ給え。そいつが犯人はんにんか、少すこしくとも犯人はんにんの相棒あいぼうに違いない。木島きしま君の油断ゆだんしている隙に、報告ほうこく書の入った封筒ふうとうと、この白紙しらかみの封筒ふうとうとすり換えたんだ。毒を飲ませたのも、同おんなじ奴かも知れない。出来できるだけ詳細しょうさいに調しらべてくれ給え」

「承知しょうちしました。しかし、もう一つ、木島きしま君が持って来たものがあるんです。死体したいの右手みぎてをごらん下さい。そこに掴んでいるものは、余程よほど大切な証拠しょうこ品らしいんです。……では、僕失礼しつれいします」

小池こいけ助手じょしゅはテキパキと云い捨てて、帽子ぼうしを掴つかむと、いきなり外へ飛とび出だして行った。

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
「日の出」新潮社、1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月
Source edition (底本)
底本:「江戸川乱歩全集 第12巻 悪魔の紋章」光文社文庫、光文社

   2003(平成15)年12月20日初版1刷発行

底本の親本:「江戸川乱歩選集 第二巻」新潮社

   1938(昭和13)年10月

底本の親本:「日の出」新潮社

   1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:北川松生

2017年1月12日作成

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
門田裕志
Proofread by (校正)
北川松生

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