Nihoner

中島敦 Atsushi Nakajima 1909.05.05〜1942.12.04

盈虚

えいきょ

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衛えいの霊公れいこうの三十さんじゅう九年と云いう年の秋に、太子かいがいかいがいが父の命を受うけて斉せいに使したことがある。途みちに宋の国を過すぎた時、畑に耕たがやす農夫のうふ共が妙な唄を歌うたうのを聞いた。

既定きてい爾婁豬

盍帰吾艾

牝豚めすぶたはたしかに遣った故

早く牡豚を返かえすべし

衛の太子たいこは之これを聞きくと顔色がんしょくを変えた。思おもい当あたることがあったのである。

父・霊公れいこうの夫人ふじん(といっても太子たいこの母ではない)南子なんしは宋の国から来ている。容色ようしょくよりも寧むしろ其その才気さいきで以てすっかり霊公れいこうをまるめ込んでいるのだが、此この夫人ふじんが最近さいきん霊公れいこうに勧すすめ、宋から公子きみこ朝という者を呼んで衛の大夫たいふに任じさせた。宋朝そうちょうは有名ゆうめいな美男びなんである。衛に嫁とつぐ以前いぜんの南子と醜関係かんけいがあったことは、霊公れいこう以外いがいの誰一人ひとりとして知らぬ者は無なあい。二人ふたりの関係かんけいは今衛の公宮こうきゅうで再ふたたび殆ほとんどおおっぴらに続つずけられている。宋の野人やじんの歌うた牝豚めすぶた牡豚とは、疑うたがいもなく、南子と宋朝そうちょうとを指さしているのである。

太子たいこは斉から帰かえると、側臣の戯陽速ぎようそくを呼んで事を謀はかった。翌日あくるひ、太子たいこが南子夫人ふじんに挨拶あいさつに出た時、戯陽速は既すでに匕首あいくちを呑んで室の一隅いちぐうの幕の陰に隠がくれていた。さりげなく話をしながら太子たいこは幕の陰に目めくばせをする。急に臆したものか、刺客しかくは出て来ない。三度合図あいずをしても、ただ黒ぐろい幕がごそごそ揺ゆれるばかりである。太子たいこの妙なそぶりに夫人ふじんは気が付いた。太子たいこの視線しせんを辿り、室の一隅いちぐうに怪あやしい者の潜んでいるを知しると、夫人ふじんは悲鳴ひめいを挙あげて奥へ跳とび込んだ。其その声に驚いて霊公れいこうが出て来くる。夫人ふじんの手を執って落着けようとするが、夫人ふじんは唯狂気きょうきのように「太子たいこが妾わたしを殺ころします。太子たいこが妾を殺ころします」と繰返くりかえすばかりである。霊公れいこうは兵を召めして太子たいこを討たせようとする。其その時分じぶんには太子たいこも刺客しかくも疾とうに都を遠とおく逃げ出していた。

宋に奔はしり、続いて晋しんに逃のがれた太子かいがいかいがいは、人毎に語って言った。淫婦いんぷ刺殺しさつという折角せっかくの義挙ぎきょも臆病おくびょうな莫迦ばか者の裏切うらぎりによって失敗しっぱいしたと。之これも矢張衛ちょうえいから出奔しゅっぽんした戯陽速が此この言葉ことばを伝え聞いて、斯こう酬いた。とんでもない。こちらの方こそ、すんでの事に太子たいこに裏切うらぎりられる所だったのだ。太子たいこは私を脅おどして、自分じぶんの義母ぎぼを殺させようとした。承知しょうちしなければ屹度きっと私が殺されたに違ちげいないし、もし夫人ふじんを巧く殺せたら、今度こんどは必かならず其その罪をなすりつけられるに決っている。私が太子たいこの言を承諾しょうだくして、しかも実行じっこうしなかったのは、深謀しんぼう遠慮えんりょの結果けっかなのだと。

晋では当時とうじ范はん氏中行ちゅうこう氏の乱で手を焼いていた。斉・衛の諸国しょこくが叛乱はんらん者の尻押をするので、容易たやすいに埒らちがあかないのである。

晋に入った衛の太子たいこは、此この国の大黒だいこく柱たる趙簡子ちょうかんしの許に身を寄よせた。趙氏が頗すこぶる厚遇こうぐうしたのは、此この太子たいこを擁立ようりつすることによって、反晋派たる現在げんざいの衛侯に楯突たてつこうとしたに外ならぬ。

厚遇こうぐうとはいっても、故国ここくにいた頃の身分みぶんとは違たがう。平野ひらのの打続うちつずく衛の風景ふうけいとは凡およそ事こと変かわった・山勝かちの絳こうの都に、侘わびしい三年の月日がっぴを送った後、太子たいこは遥はるかに父衛侯の訃ふを聞いた。噂によれば、太子たいこのいない衛国では、已やむを得ずかいがいかいがいの子・輒ちょうを立てて、位に即かせたという。国を出奔しゅっぽんする時後に残のこして来た男の児である。当然とうぜん自分じぶんの異母いぼ弟の一人ひとりが選ばれるものと考かんがえていたかいがいかいがいは、一寸ちょっと妙な気がした。あの子供こどもが衛侯だと? 三年前のあどけなさを考かんがえると、急に可笑おかしくなって来た。直すぐにも故国ここくに帰って自分じぶんが衛侯となるのに、何どの造作ぞうさも無なあいように思われる。

亡命ぼうめい太子たいこは趙簡子の軍に擁せられて意気いき揚々と黄河こうがを渡った。愈々衛の地である。戚せきの地迄来くると、しかし、其処そこからは最早もはや一歩かずほも東へ進めないことが判った。太子たいこの入国にゅうこくを拒こばむ新衛侯の軍勢ぐんぜいの邀撃ようげきに遇ったからである。戚の城に入いるのでさえ、喪服もふくをまとい父の死を哭こくしつつ、土地とちの民衆みんしゅうの機嫌きげんをとりながらはいらなければならぬ始末しまつであった。事の意外いがいに腹を立てたが仕方しかたが無なあい。故国ここくに片足かたあし突っ込んだ儘、彼は其処そこに留まって機を待たねばならなかった。それも、最初さいしょの予期よきに反し、凡およそ十三じゅうそう年の長きに亘って。

最早もはや(曾かつては愛らしかった)己おのれの息子むすこの輒ちょうは存在そんざいしない。己おのれの当然とうぜん嗣つぐべき位を奪った・そして執拗しつように己の入国にゅうこくを拒否きょひする・貪慾どんよくな憎にくむべき・若わかい衛侯が在あるだけである。曾かつては自分じぶんの目をかけてやった諸大夫たいふ連が、誰一人ひとり機嫌きげん伺うかがいにさえ来ようとしない。みんな、あの若わかい傲慢ごうまんな衛侯と、それを輔たすける・しかつめらしい老獪ろうかいな上卿しょうけい・孔叔圉こうしゅくぎょ(自分じぶんの姉の夫に当あたる爺さんだが)の下で、かいがいかいがいなどという名前なまいは昔からてんで聞いたこともなかったような顔をして楽しげに働いている。

明あけ暮くれ黄河こうがの水ばかり見て過した十年余あまりの中に、気きまぐれで我わが儘ままだった白面しらふの貴公きこう子が、何時いつか、刻薄で、ひねくれた中年ちゅうねんの苦労くろう人に成上っていた。

荒涼こうりょうたる生活せいかつの中で、唯ただ一つの慰めは、息子むすこの公子きみこ疾であった。現在げんざいの衛侯輒ちょうとは異腹いふくの弟だが、が戚の地に入いると直すぐに、母親ははおやと共に父の許に赴き、其処そこで一緒いっしょに暮くらすようになったのである。志を得たならば必かならず此この子を太子たいこにと、かいがいかいがいは固く決ぎめていた。息子むすこの外にもう一つ、彼は一種いっしゅの棄鉢すてばちな情熱じょうねつの吐はけ口ぐちを闘戯に見出みだしていた。射倖心しゃこうしんや嗜虐しぎゃく性の満足まんぞくを求もとめる以外いがいに、逞たくましい雄の姿への美的びてきな耽溺たんできでもある。余あまり裕ゆたかでない生活くらしの中ちゅうから莫大ばくだいな費用ひようを割いて、堂々たる舎を連つらね、美しく強こわい共を養っていた。

孔叔圉こうしゅくぎょが死しに、其その未亡人みぼうじんでの姉に当あたる伯姫はくきが、息子むすこのかいかいを虚器きょきに擁して権勢けんせいを揮い始はじめてから、漸ようやく衛の都の空気くうきは亡命ぼうめい太子たいこにとって好転こうてんして来た。伯姫の情夫じょうふ・渾良夫こんりょうふという者が使となって屡々しばしば都と戚との間を往復おうふくした。太子たいこは、志を得た暁には汝を大夫たいふに取立とりたて死罪しざいに抵あたる咎あるも三度迄は許そうと良夫よしおに約束やくそくし、之を手先てさきとしてぬかり無く策謀さくぼうを運めぐらす。

周の敬王の四十しじゅう年、閏うるう十二とうに月某日ぼうじつは良夫よしおに迎むかえられて長駆ちょうく都に入った。薄暮はくぼ女装じょそうして孔氏の邸に潜入せんにゅう、姉の伯姫や渾良夫よしおと共に、孔家の当主とうしゅ衛の上卿じょうけいたる・甥の孔こうかい(伯姫からいえば息子むすこ)を脅おどし、之を一味いちみに入れてクウ・デ・タアを断行だんこうした。子・衛侯は即刻そっこく出奔しゅっぽん、父・太子たいこが代って立だつ。即すなわち衛の荘公しょうこうである。南子に逐われて国を出てから実げに十七年目であった。

荘公しょうこうが位に立って先まず行おうとしたのは、外交がいこうの調整ちょうせいでも内治の振興しんこうでもない。それは実げに、空費くうひされた己の過去かこに対たいする補償ほしょうであった。或いは過去かこへの復讐ふくしゅうであった。不遇ふぐう時代じだいに得られなかった快楽かいらくは、今や性急せいきゅうに且かつ十二分じゅうにぶんに充たされねばならぬ。不遇ふぐう時代じだいに惨みじめに屈くっしていた自尊じそん心は、今や俄にわかに傲然ごうぜんと膨れ返らねばならぬ。不遇ふぐう時代じだいに己を虐げた者には極刑きょっけいを、己を蔑さげすんだ者には相当そうとうな懲しめを、己に同情どうじょうを示さなかった者には冷遇れいぐうを与えねばならぬ。己の亡命ぼうめいの因であった先君せんくんの夫人ふじん南子が前年ぜんねん亡くなっていたことは、彼にとって最大さいだいの痛恨事こんじであった。あの姦婦かんぷを捕えてあらゆる辱はずかしめを加え其その揚句あげく極刑きょっけいに処してやろうというのが、亡命ぼうめい時代じだいの最もっとも愉たのしい夢だったからである。過去かこの己に対して無関心かんしんだった諸重臣じゅうしんに向って彼は言った。余は久しく流離さすらいの苦を嘗め来たった。どうだ。諸子しょしにもたまにはそういう経験けいけんが薬くすりだろうと。此この一言いちごんで直ただちに国外こくがいに奔った大夫たいふも二三にさんに止まらない。姉の伯姫と甥の孔こうかいとには、固もとより大おおいに酬むくいる所があったが、一夜宴やえんに招いて大おおいに酔わしめた後、二人ふたりを馬車ばしゃに乗のせ、御者ぎょしゃに命じて其その儘国外こくがいに駆り去らしめた。衛侯となってからの最初さいしょの一年ひととせは、誠に憑つかれた様な復讐ふくしゅうの月日がっぴであった。空しく流離さすらいの中に失われた青春せいしゅんの埋合せの為に、都下とかの美女びじょを漁っては後宮こうきゅうに納れたことは附加くわえるまでもない。

前から考かんがえていた通とおり、己おのれと亡命ぼうめいの苦を共にした公子きみこ疾を彼は直ただちに太子たいこと立てた。まだほんの少年しょうねんと思っていたのが、何時なんどきしか堂々たる青年せいねんの風を備え、それに、幼時ようじから不遇ふぐうの地位ちいにあって人の心の裏ばかりを覗いて来たせいか、年に似合にあいわぬ無気味きみな刻薄さをチラリと見みせることがある。幼時ようじの溺愛できあいの結果けっかが、子の不遜ふそんと父の譲歩じょうほという形で、今に到いたる迄残のこり、はたの者には到底とうてい不可解ふかかいな気の弱さを、父は此この子の前にだけ示しめすのである。此この太子たいこ疾と、大夫たいふに昇った渾良夫こんりょうふとだけが、荘公しょうこうにとっての腹心ふくしんといってよかった。

或夜、荘公しょうこうは渾良夫よしおに向って、先さきの衛侯輒ちょうが出奔しゅっぽんに際し累代るいだいの国の宝器ほうきをすっかり持去ったことを語がたり、如何いかにして取戻とりもどすべきかを計った。良夫よしおは燭を執とる侍者じしゃを退席たいせきさせ、自みずから燭を持って公に近付ちかずき、低声ていせいに言った。亡命ぼうめいされた前衛ぜんえい侯も現太子たいこも同おなじく君の子であり、父たる君に先立って位に在られたのも皆自分じぶんの本心ほんしんから出たことではない。いっそ此この際前衛ぜんえい侯を呼戻よびもどし、現太子たいこと其その才を比くらべて見て優れた方を改あらためて太子たいこに定さだめられては如何いか。若もし不才ふさいだったなら、其その時は宝器ほうきだけを取上げられれば宜よい訳だ。……

其その部屋へやの何処いずこかに密偵みっていが潜んでいたものらしい。慎重しんちょうに人払ひとばらいをした上での此この密談みつだんが其その儘太子たいこの耳に入った。

次の朝、色を作なした太子たいこ疾が白刃しらはを提げた五人の壮士そうしを従えて父の居間いまへ闖入ちんにゅうする。太子たいこの無礼ぶれいを叱咤しったするどころではなく、荘公しょうこうは唯色蒼ざめて戦おののくばかりである。太子たいこは従者じゅうしゃに運ばせた牡豚を殺ころして父に盟ちかわしめ、太子たいことしての己の位置いちを保証ほしょうさせ、さて渾良夫よしおの如き奸臣かんしんはたちどころに誅ちゅうすべしと迫せまる。あの男には三度迄死罪しざいを免めんずる約束やくそくがしてあるのだと公が言ゆう。それでは、と太子たいこは父を威おどすように念を押おす。四度目の罪がある場合ばあいには間違まちがいなく誅戮ちゅうりくなさるでしょうな。すっかり気を呑まれた荘公しょうこうは唯々いいとして「諾」と答こたえるほかは無なあい。

翌年よくとしの春、荘公しょうこうは郊外こうがいの遊覧ゆうらん地籍圃せきほに一亭を設もうけ、墻塀しょうへい、器具きぐ、緞帳どんちょうの類を凡すべて虎の模様もよう一式いっしきで飾った。落成らくせい式の当日とうじつ、公は華はなやかな宴を開ひらき、衛国の名流めいりゅうは綺羅きらを飾って悉ことごとく此この地に会した。渾良夫こんりょうふはもともと小姓こしょう上のぼりとて派手好はでごのみの伊達男だておとこである。此この日彼は紫衣しえに狐裘こきゅうを重かさね、牡馬おうま二頭立の豪奢ごうしゃな車を駆って宴に赴いた。自由じゆうな無礼講れいこうのこととて、別に剣を外はずしもせずに食卓しょくたくに就き、食事しょくじ半なかばにして暑くなったので、裘を脱いだ。此この態を見た太子たいこは、いきなり良夫よしおに躍りかかり、胸倉むなぐらを掴んで引摺ひきずり出だすと、白刃しらはを其その鼻先はなさきに突きつけて詰なじった。君寵くんちょうを恃たのんで無礼ぶれいを働はたらくにも程があるぞ。君に代って此この場で汝を誅ちゅうするのだ。

腕力うでじからに自信じしんの無なあい良夫よしおは強しいて抵抗ていこうもせず、荘公しょうこうに向って哀願あいがんの視線しせんを送おくりながら、叫さけぶ。嘗かつて御主君しゅくんは死罪しざい三件まで之を免ぜんと我に約し給たまうた。されば、仮令たとい今我に罪ありとするも、太子たいこは刃やいばを加くわえることが出来しゅったいぬ筈だ。

三件とや? 然らば汝の罪を数えよう。汝今日きょう、国君こくくんの服たる紫衣しえをまとう。罪一つ。天子てんし直参じきさんの上卿じょうけい用たる衷甸両牡ちゅうじょうりょうぼの車に乗のる。罪二つ。君の前にして裘を脱ぬぎ、剣を釈とかずして食くう。罪三つ。

それだけで丁度ちょうど三件。太子たいこは未いまだ我を殺ころすことは出来しゅったいぬ、と、必死ひっしにもがきながら良夫よしおが叫さけぶ。

いや、まだある。忘わすれるなよ。先夜せんや、汝は主君しゅくんに何を言上ごんじょうしたか? 君侯くんこう父子ちちこを離間りかんしようとする佞臣奴ねいしんめ!

良夫よしおの顔色がんしょくがさっと紙の様に白くなる。

之で汝の罪は四つだ。という言葉ことばも終らぬ中に、良夫よしおの頸はがっくり前に落おち、黒地くろじに金で猛虎もうこを刺繍ししゅうした大緞帳どんちょうに鮮血せんけつがさっと迸ほとばしる。

荘公しょうこうは真蒼まっさおな顔をした儘、黙って息子むすこのすることを見ていた。

晋の趙簡子ちょうかんしの所から荘公しょうこうに使が来た。衛侯亡命ぼうめいの砌みぎり、及ばず乍ながら御援け申した所、帰国後くなしり一向いっこうに御挨拶あいさつが無なあい。御自身おのれに差支さしつかえがあるなら、せめて太子たいこなりと遣わされて、晋侯しんこうに一応いちようの御挨拶あいさつがありたい、という口上こうじょうである。かなり威猛高な此この文言ぶんげんに、荘公しょうこうは又しても己の過去かこの惨めさを思出し、少からず自尊じそん心を害した。国内こくないに未いまだ紛争ごたごたが絶えぬ故、今暫しばらく猶予ゆうよされ度い、と、取敢とりあえず使を以て言わせたが、其その使者ししゃと入いれ違ちがいに衛の太子たいこからの密使みっしが晋に届いた。父衛侯の返辞へんじは単たんなる遁辞とんじで、実は、以前いぜん厄介やっかいになった晋国が煙たさ故の・故意こいの延引えんいんなのだから、欺されぬように、との使である。一日ついたちも早く父に代り度いが為の策謀さくぼうと明あきらかに知れ、趙簡子も流石さすがに些いささか不快ふかいだったが、一方いっぽう衛侯の忘恩ぼうおんも又必かならず懲さねばならぬと考かんがえた。

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First published
「政界往来」1942(昭和17)年7月
Source edition (底本)
底本:「中島敦全集 2」ちくま文庫、筑摩書房


   1993(平成5)年3月24日初版発行

   1999(平成11)年10月15日第5刷発行

初出:「政界往来」

   1942(昭和17)年7月

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:小林繁雄

校正:多羅尾伴内

2003年7月6日作成

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
小林繁雄
Proofread by (校正)
多羅尾伴内

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