Nihoner

太宰治 Osamu Dazai 1909.06.19〜1948.06.13

I can speak

アイ キャン スピーク

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くるしさは、忍従にんじゅうの夜。あきらめの朝。この世よとは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合しあわせも、陋巷ろうこうの内に、見つけし、となむ。

わが歌、声を失い、しばらく東京とうきょうで無為むい徒食としょくして、そのうちに、何か、歌でなく、謂いわば「生活せいかつのつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書かきはじめて、自分じぶんの文学ぶんがくのすすむべき路みちすこしずつ、そのおのれの作品さくひんに依って知らされ、ま、こんなところかな? と多少たしょう、自信じしんに似たものを得て、まえから腹案ふくあんしていた長ながい小説しょうせつに取りかかった。

昨年さくねん、九月、甲州こうしゅうの御坂みさか峠頂上ちょうじょうの天下てんか茶屋ちゃやという茶店ちゃみせの二階にかいを借かりて、そこで少すこしずつ、その仕事しごとをすすめて、どうやら百枚ちかくなって、読みかえしてみても、そんなに悪わるい出来しゅったいではない。あたらしく力を得て、とにかくこれを完成かんせいさせぬうちは、東京とうきょうへ帰かえるまい、と御坂みさかの木枯こがらしつよい日に、勝手かってにひとりで約束やくそくした。

ばかな約束やくそくをしたものである。九月、十月かんなずき、十一といち月、御坂みさかの寒気さむけ堪えがたくなった。あのころは、心細こころぼそい夜がつづいた。どうしようかと、さんざ迷った。自分じぶんで勝手かってに、自分じぶんに約束やくそくして、いまさら、それを破やぶれず、東京とうきょうへ飛んで帰がえりたくても、何かそれは破戒はかいのような気がして、峠のうえで、途方とほうに暮くれた。甲府こうふへ降りようと思った。甲府こうふなら、東京とうきょうよりも温ぬくいほどで、この冬も大丈夫だいじょぶすごせると思った。

甲府こうふへ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府こうふのまちはずれの下宿屋やどや、日当ひあたりのいい一部屋へやかりて、机にむかって坐ってみて、よかったと思った。また、少すこしずつ仕事しごとをすすめた。

おひるごろから、ひとりでぼそぼそ仕事しごとをしていると、わかい女の合唱がっしょうが聞えて来くる。私はペンを休めて、耳傾かたむける。下宿げしゅくと小路こうじひとつ距へだて製糸せいし工場こうばが在あるのだ。そこの女工じょこうさんたちが、作業さぎょうしながら、唄うたうのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うたうのだ。鶏群けいぐんの一鶴いっかく、そんな感かんじだ。いい声だな、と思おもう。お礼を言いたいとさえ思った。工場こうばの塀へいをよじのぼって、その声の主を、ひとめ見たいとさえ思った。

ここにひとり、わびしい男がいて、毎日まいにち毎日まいにちあなたの唄で、どんなに救われているかわからない、あなたは、それをご存ぞんじない、あなたは私を、私の仕事しごとを、どんなに、けなげに、はげまして呉くれたか、私は、しんからお礼を言いたい。そんなことを書き散らして、工場こうばの窓から、投文なげぶみしようかとも思った。

けれども、そんなことして、あの女工じょこうさん、おどろき、おそれてふっと声を失ったら、これは困こまる。無心むしんの唄を、私のお礼が、かえって濁らせるようなことがあっては、罪悪ざいあくである。私は、ひとりでやきもきしていた。

恋、かも知れなかった。二月、寒いしずかな夜である。工場こうばの小路こうじで、酔漢すいかんの荒あらい言葉ことばが、突然とつぜん起った。私は、耳をすました。

――ば、ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を呑んだからって、おらあ笑われるような覚おぼえは無ねえ。I can speak English. おれは、夜学やがくへ行ってんだよ。姉さん知ってるかい? 知らねえだろう。おふくろにも内緒ないしょで、こっそり夜学やがくへかよっているんだ。偉くならなければ、いけないからな。姉さん、何がおかしいんだ。何を、そんなに笑わらうんだ。こう、姉さん。おらあな、いまに出征せいするんだ。そのときは、おどろくなよ。のんだくれの弟だって、人なみの働はたらきはできるさ。嘘だよ、まだ出征しゅっせいとは、きまってねえのだ。だけども、さ、I can speak English. Can you speak English? Yes, I can. いいなあ、英語えいごって奴は。姉さん、はっきり言って呉れ、おらあ、いい子だな、な、いい子だろう? おふくろなんて、なんにも判りゃしないのだ。……

私は、障子そうじを少すこしあけて、小路こうじを見みおろす。はじめ、白梅しらうめかと思った。ちがった。その弟の白じろいレンコオトだった。

季節きせつはずれのそのレンコオトを着て、弟は寒そうに、工場こうばの塀にひたと脊中せなかをくっつけて立っていて、その塀の上の、工場こうばの窓から、ひとりの女工じょこうさんが、上半身はんしん乗り出し、酔った弟を、見つめている。

月が出ていたけれど、その弟の顔も、女工じょこうさんの顔も、はっきりとは見えなかった。姉の顔は、まるく、ほの白く、笑っているようである。弟の顔は、黒く、まだ幼おさない感かんじであった。I can speak というその酔漢すいかんの英語えいごが、くるしいくらい私を撃った。はじめに言葉ことばありき。よろずのもの、これに拠りて成なる。ふっと私は、忘わすれた歌を思おもい出でしたような気がした。たあいない風景ふうけいではあったが、けれども、私には忘わすれがたい。

あの夜の女工じょこうさんは、あのいい声のひとであるか、どうかは、それは、知らない。ちがうだろうね。

(「若草わかくさ」昭和十わじゅう四年二月号)

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First published
「若草」1939(昭和14)年2月号
Source edition (底本)
底本:「新樹の言葉」新潮文庫、新潮社


   1982(昭和57)年7月25日発行

初出:「若草」

   1939(昭和14)年2月号

入力:土屋隆

校正:鈴木厚司

2005年10月12日作成

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Typed by (入力)
土屋隆
Proofread by (校正)
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