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小川未明 Mimei Ogawa 1882.04.07〜1961.05.11

愛に就ての問題

あいについてのもんだい

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私は母の愛というものに就いて考かんがえる。カーライルの、母の愛ほど尊とうといものはないと云っているが、私も母の愛ほど尊とうといものはないと思おもう。子供こどもの為ためには自分じぶんの凡すべてを犠牲ぎせいにして尽ずくすという愛の一面いちめんに、自分じぶんの子供こどもを真直まなおに、正直しょうじきに、善良ぜんりょうに育てゝ行ゆくという厳きびしい、鋭するどい眼がある。この二つの感情かんじょうから結ばれた母の愛より大おおきなものはないと思おもう。しかし世よの中なかには子供こどもに対して責任せきにん感の薄うすい母も多おおい。が、そういう者は例外れいがいとして、真に子供こどもの為ために尽した母に対してはその子こ供は永久えいきゅうにその愛を忘わすれる事が出来しゅったいない。そして、子供こどもは生長せいちょうして社会しゃかいに立つようになっても、母から云い含められた教訓きょうくんを思えば、如何いかなる場合ばあいにも悪事あくじを為なし得ないのは事実じじつである。何時なんどきも母の涙の光った眼が自分じぶんの上に注がれて居おるからである。これは架空かくう的の宗教しゅうきょうよりも強く、また何等根拠こんきょのない道徳どうとくよりももっと強くその子こ供の上に感化かんかを与えている。神を信しんずるよりも母を信しんずる方が子供こどもに取っては深く、且かつ強こわいのである。実げに母と子の関係かんけいは奇蹟きせきと云っても可よい程に尊とうとい感かんじのするものであり、また強こわい熱意ねついのある信仰しんこうである。そして、母と子の愛は、男と女の愛よりも更さらに尊く、自然じねんであり、別の意味いみに於て光輝こうきのあるもののように感かんずる。

私は多くの不良ふりょう少年しょうねんの事実じじつに就いては知らないが、自分じぶんの家に来た下女しもおんな、又は知っている人間じんかんの例に就いて考かんがえて見れば、母親ははおやの所謂いわゆるしっかりした家の子供こどもは恐おそれというものを感かんずる、悪わるいという事を知しる。しかし、母親ははおやが放縦ほうじゅうであり、無自覚じかくである家の子供こどもは、叱っても恐おそれというものを感かんじない。そして悪わるいという事に就いて根本こんぼん的に無自覚じかくである。唯世よの中なかは胡魔化して行けば可いいというような事しか考かんがえていない。この一事いちじを見ても、子供こども心に信仰しんこうを有もたしめるものは、全く母の感化かんかである。

最近さいきんの新聞しんぶん紙は、三山みつやま博士はかせの子供こどもが三人共家出いえでをして苦しんでいるという事実じじつを伝つたえている。その記事きじに依よると、本当ほんとの母親ははおやは小ちいさいうちに死んでしまって、継母けいぼの手に育ったという。博士はかせは三人の子供こどもが三人共学問がくもんが嫌ぎらいで、性質せいしつが悪くて家出いえでをしたように云っているけれども、これを全く子供こどもの罪に帰きする事は出来しゅったいぬ。「妻は小学校がっこうしか卒業そつぎょうしていない女だから、子供こどもを虐いじめる事は出来しゅったいない。自分じぶんが子供こどもを叱しかる時には妻は一切口きりくちを出さぬ事にしている。」とか云って、博士はかせはそれを継母けいぼの罪でないように云っている。しかし、子供こどもの教育きょういくは必かならずしも母親ははおや自身おのれの学問がくもんの程度ていどに関かかわるものではない。それに学問がくもんがないから虐いじめることが出来しゅったいないなどというのは、如何いかにも可怪おかしな言葉ことばである。私は何も博士はかせの家庭かていに立入たてりって批評ひひょうしようとするものではないけれども、若もしこれが本当ほんとの母であったならば、又本当ほんとの母でなくとも愛というものがあったならば、如何いかに博士はかせが厳重げんじゅうに子供こどもを叱ろうとも、それが為ために失敗しっぱいする事はなかったであろう。

私はこの社会しゃかいに於て弱者じゃくしゃに対して、若しくは貧窮ひんきゅう者に対して、これを救すくうという場合ばあいに、単たんにそれを気きの毒どくだから助たすけてやるとか、若しくは慈善じぜんは善なる行為こういであるから救すくうとかいうのでは、反ってその人間じんかんを堕落だらくさせるのみで、決けっして社会しゃかいの為ためになるものではないと思おもう。若もしこの社会しゃかいの有力ゆうりょくなる識者しきしゃが、真に母が子供こどもに対たいする如き無窮むきゅうの愛と、厳粛げんしゅくさとを有って行おこなうのであれば宜よろしいけれども、そうでないならば寧むしろ自然じねんの儘に放任ほうにんして置おくに如しかぬ、彼等の多くは愛を誤解ごかいしている。

茲ここに苦しんでいる人間じんかんがあるとする。それを傍の人間じんかんが救すくう、その行為こういが果はたして愛であるか否かは余程よほど疑問ぎもんである。苦しんでいる人間じんかんをして飽あくまで苦しませるという事は、その人間じんかんが軈やがて何物なにものかに突当あたる事を得せしむるものだ。半途はんとでそれを救すくうとしたならば、その人間じんかんは終ついに行ゆく所まで行かずして仕舞じまう。凡すべての窮局きゅうきょくによって人間じんかんは初はじめてある信仰しんこうに入いる。自みずから眼覚めざめる。今の世よの中なかの博愛はくあいとか、慈善じぜんとかいうものは、他人たにんが生活せいかつに苦しみ、また境遇きょうぐうに苦しんでいる好い加減かげんの処でそれを救い、好い加減かげんの処でそれを棄すてる。そして、終ついにこの人間じんかんに窮局きゅうきょくまで達せしめぬ。私はこんな行為こういを愛ということは出来しゅったいぬ。本当ほんとの愛があれば、その場合ばあいそれを凝視ぎょうしすべきである。真の傍観者かんしゃに愛がないということは云えない。一つの事実じじつをじっと凝視ぎょうしするという事は、即すなわち凝視ぎょうしそのものが私はある意味いみで愛そのものだと云い得えると思おもう。この意味いみから自分じぶんの敵に対しても凝視ぎょうしを怠ってはならぬ。

私一個の考から云えば、人を愛あいするという事も、憎にくむという事も同おんなじである。憎み切ってしまう事が出来れば、そこに何等かこの人生じんせいに対して強こわい執着しゅうちゃくのある事を意味いみする。残忍ざんにんという事もどれ程人間じんかんというものが残忍ざんにんであり得えるか、残忍ざんにんの限かぎりを盟した時、眼を掩ってそれ以上いじょうの残忍ざんにんは為なし得ないという時そこに本当ほんとの人間じんかん性はあり得える。

私は如何いかなる場合ばあいにも中途ちゅうと半端はんぱの虚偽きょぎを憎にくむ。現代げんだいの多くの人々はこの中途ちゅうと半端はんぱに居おる。しかも、人が苦しみを経験けいけんし、若しくは苦痛くつうを経験けいけんし、若しくは生活せいかつ上の奮闘ふんとうを余儀よぎなくされている場合ばあい、社会しゃかいの同情どうじょう、博愛はくあい、慈善じぜん事業じぎょう、宗教しゅうきょう家等に依って救すくうということは何時なんどきまで経ってもその人間じんかんに本当ほんとの霊を見せずにしまうものである。極端きょくたんなる苦痛くつうは最後さいごに確信かくしんと光明こうみょうを与あたえると信しんずる。

今度こんどの戦争せんそうの事に対しても、徹底てってい的に最後さいごまで戦たたかうということは、独逸ドイツが勝っても、或は敗まけても、世界せかいの人心じんしんの上にはっきりした覚醒かくせいを齎もたらすけれども、それがこの儘済んだら、世界せかいの人心じんしんに対して何物なにものをも附与ふよしないであろう。

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Where this text comes from

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Source edition (底本)
底本:「芸術は生動す」国文社

   1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行

底本の親本:「生活の火」精華書院

   1922(大正11)年7月10日初版

入力:Nana ohbe

校正:仙酔ゑびす

2011年11月30日作成

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仙酔ゑびす

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