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若山牧水 Bokusui Wakayama 1885.08.24〜1928.09.17

白骨温泉

しらほねおんせん

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嶮けわしい崖下がけしたの渓間けいかんに、宿屋やどやが四軒、蕎麦屋そばやが二軒、煎餅せんべいや絵葉書えはがきなどを売うる小店こだなが一軒、都合つごう唯だ七軒の家が一握ひとにぎりの狭せまい処に建って、そして郵便ゆうびん局所きょくしょ在地ざいちから八里の登のぼりでその配達はいたつは往復おうふく二日がかり、乗鞍のりくら岳の北麓ほくろくに当あたり、海抜かいばつ四五千しごせん尺(?)春五月さつきから秋十一といち月までが開業かいぎょう期間きかんでその他の五個月かげつは犬一疋残のこる事なく、それより三里さんり下の村里むらざとに降って、あとはただ全く雪に埋れてしまう、と云えば大抵たいてい信州しんしゅう白骨しらほね温泉おんせんの概念がいねんは得られる事と思おもう。そして胃腸いちょうに利きく事は恐おそらく日本にぽん一であろうという評判ひょうばんになっている。

松本市ほんしから島々村まではたしか四里さとか五里、この間はいろいろな乗物のりものがある。この島々に郵便ゆうびん局があるのである。其処そこから稲※いねこき

村まで二里、此処ここに無集配しゅうはいの郵便ゆうびん局があって、附近ふきんの物産ぶっさんの集散しゅうさん地になって居おる。それより梓川あずさがわに沿そうて六里、殆ほとんど人家じんかとてもない様な山道さんどうを片登のぼりに登ってゆくのだ。この間の乗物のりものといえば先まず馬であるが、それも私の行った時には道がいたんで途絶とぜつしていた。ただ旧道きゅうどうをとるとすると白骨しらほねより三里さんりほど手前てまえに大野川のがわという古ふるびた宿場しゅくばがあって、其処そこを迂回うかいする事になり、辛かろうじて馬の通わぬ事もないという話であった。温泉おんせんはすべてこの大野川のがわの人たちが登って経営けいえいしているのだ。女中じょちゅうも何もみな大野川のがわの者である。雪が来くる様になると、夜具やぐも家具かぐも其儘にしておいて、七軒家の者が残らずこの大野川のがわへ降りて来くるのだ。客を泊とめるのは大抵たいてい十月かんなずき一杯いっぱいで、あとは多く宿屋やどやの者のみ残のこり、いよいよ雪が深くなってどんな泥棒どろぼうも往来おうらい出来しゅったいなくなるのを見みると、大おおきな家をがら空あきにしたまますべて大野川のがわに帰って来くるのだそうだ。稀な大雪たいせつが来くると、大野川のがわ全体ぜんたいの百何十なんじゅう人が総出そうでとなって七軒の屋根やねの雪を落おとしに行ゆく、そうしないと家がつぶれるのだそうだ。

信州しんしゅうは養蚕ようさんの国である。春蚕しゅんさん夏蚕なつご秋蚕あきごと飼いあげるとその骨休ほねやすめにこの山の上の温泉おんせんに登って来くる。多おおい時は四軒の宿屋やどや、と云っても大おおきいのは二軒だけだが、この中へ八百はっぴゃく人から千人の客を泊とめるのだそうだ。大おおきいと云っても知れたもので、勿論もちろん一人ひとり若くは一組で一室いっしつを取どるなどという事はなく所謂しょい追い込みの制度せいどで出来できるだけの数を一つの部屋へやの中へ詰め込もうとするのである。たたみ一畳ひと一人ひとりの割が贅沢ぜいたくとなる場合ばあいもあるそうだ。彼等の入浴にゅうよく期間きかんは先まず一週間しゅうかん、永くて二週間しゅうかんである。それだけ入って行けば一年中ねんじゅう無病むびょう息災そくさいで働はたらき得えるという信念しんねんで年々登って来くるらしい。それは九月の中頃なかごろから十月かんなずきの初旬しょじゅんまでで、それがすぎて稲の刈かり入いれとなると、めっきり彼等の数は減ってしまう。

私の其処そこに行っていたのは昨年さくねんの九月二十にじゅう日から十月かんなずき十五日までであった。矢張やはり年来ねんらいの胃腸いちょうの痛いたみを除のぞくために、その国の友人ゆうじんから勧すすめられ遥々と信州しんしゅう入いりをして登って行ったのであった。松本まつもとまで行って、其処そこでたたみ一畳ひと一人ひとりの話を聞きくと、折柄おりから季節きせつにも当っていたので、とてももう登のぼる元気げんきは無くなったのであったが、不思議ふしぎにまた蕎麦そばむぎの花はなざかりのその季節きせつの湯がよく利きくのだと種々説き勧められて、半なかば泣なく泣なく登って行ったのであった。前に云った稲※

からの道で馬の事を訊ねたほど、その頃私の身体しんたいは弱っていた。

が、行ってみると案外あんがいであった。その年は丁度ちょうど欧洲おうしゅう戦のあとの経済けいざい界がひどく萎縮いしゅくしていた時だとかで、繭や生糸きいとの値ががた落おちになっていたため、それらで一年中ねんじゅうの金をとるお百姓ひゃくせいたちのひどく弱っている場合ばあいであったのだそうだ。白骨しらほねの湯に行けば繭の相場そうばが解わかると云われているほど、その影響えいきょうは早速さそくその山の上の湯にひびいて、私の行った時は例年れいねんの三分の一もそれらの浴客よっかくが来ていなかった。一番いちばん多かった十月かんなずき初旬しょじゅんの頃で四五百しごひゃく人どまりであった。ために私は悠々と滞在たいざい中一室いっしつを占領りょうする事も出来しゅったいたのであった。

彼等の多くは最もっとも休息きゅうそくを要ようする爺さん婆さんたちであるが、若者わかものも相当そうとうに来ていた。そしてそうした人里ひとざと離はなれた場所ばしょであるだけその若者わかものたちの被解放かいほう感は他の温泉場せんばに於おけるより一層いっそう甚だしく、入湯にゅうとうにというより唯だ騒さわぎに来たという方が適当てきとうなほどよく騒いだ。騒さわぐと云っても料理りょうり屋があるではなく(二軒の蕎麦屋そばやがさし当りその代理だいりを勤つとめるものであるが)宿屋やどやの酒だとて里で飲のむよりずっと割が高くなっているのでさまでは飲まず、ただもう終日しゅうじつ湯槽ゆぶねから湯槽ゆぶねを裸体らたいのまま廻り歩いて、出来できるだけの声を出だして唄を唄うたうのである。唄と云っても唯だ二種類しゅるいに限られている。曰いわく木曾きそ節、曰いわく伊奈いな節、共に信州しんしゅう自慢じまんの俗謡ぞくようであるのだ。また其処そこに来くる信州しんしゅう人という中にも伊那いな谷、木曾谷そやの者が過半かはんを占めている様で、従ってこの二つの唄が繁昌はんじょうするのである。朝は先まず二時三ときぞう時からその声が起おこる、そして夜は十一時いちじ十二とうに時にまで及およぶ。私は最初さいしょ一つの共同きょうどう湯に面した部屋へやにいたのであるが、終ついにその唄に耐え兼かねてずっと奥まった小ちいさな部屋へやへ移して貰ったのであった。然しかし、久しくきいているうちに、その粗野そやや無作法さほうを責むるよりも、いかにも自然じねんな原始げんし的な娯楽ごらく場を其処そこに見みるおもいがして、いつか私は渋面じゅうめんよりも多く微笑えみを以てそれに面めんする様になった。粗野そやではあっても、卑いやしいいやらしい所は彼等には少なかった。これは信州しんしゅうの若者わかものの一つの特色とくしょくかも知れぬ。

湯は共同きょうどう湯で、二個所かしょに湧わく。内湯うちゆのあるのは私のいた湯本ゆもと館だけであったが、それは利目ききめが薄いとか云って多く皆共同きょうどう湯に行って浸っていた。多勢たせいないと騒さわぐに張合はりあいが無なあいのであろうと私は割合わりあいにその内湯うちゆの空すくのをいつも喜んでいた。サテ、湯の利目ききめであるが、私はその湯に廿日あまりを浸って、其処そこから焼岳やけだけを越こえて飛騨ひだのの高山こうざんに出、更らに徒歩とほして越中えっちゅうのの富山とみさんに廻まわり、其処そこから汽車きしゃで沼津ぬまずに帰って来たのであったが、初はじめ稲※

から白骨しらほねまで六里の道を危ぶんだ身にあとでは毎日まいにち十里十一二いちに里の山道さんどうを続つずけて歩き得たのも、見様によっては湯の利目ききめだと見られぬこともない。然しかし私は温泉おんせんの効能こうのうがそう眼まのあたりに表わるるものとは思わぬ者である。胃腸いちょうの事はとにかく、風邪かぜにも弱よわい私が昨年さくねんの冬を珍しく無事ぶじに過し得たのは(もっとも伝染でんせん性の流感りゅうかんには罹ったが)一に白骨しらほねのお蔭かげだと信じている。其処そこの湯に三日入れば三年風邪かぜを引かぬとも称えられているのだそうだ。

山の上の癖に、渓間けいかんであるため眺望ちょうぼうというものの利かぬのは意外いがいであった。渓もまた渓ともいえぬ極きわめて細こまいものであった。八九町くちょうも急坂きゅうざかを登のぼると焼岳やけだけと相向むかうて立だつ高台こうだいがあった。紅葉もみじが素敵すてきであった。十月かんなずきに入いると少すこしずつ色づきそめて、十日前後ぜんご二三にさん日のうちにばたばたと染まってしまった。それこそ全山ぜんざん燃ゆるという言葉ことばの通とおりであった。附近ふきんの畑にはただ一種いっしゅ蕎麦そばむぎのみが作られていた。「蕎麦そばむぎの花はなざかり」の言葉ことばもそれから出たものであろうと思われた。

私は時間じかんの都合つごうさえつけば今年ことしの秋も登って行き度いものと思っている。夏がいい、夏ならば東京とうきょうからも相当そうとうに客が来くるのでお話相手あいてもあろうから、と宿の者は繰返くりかえして云っていたが、それよりも寧むしろ芋を洗あらう様な伊那いな節を聞きく方が白骨しらほねらしいかも知れぬ。それに一時いちじはアルプスの登山とざん客で大変たあいへんだそうだ。私の考かんがえているのは、それらの何なんにもが影を消けすであろう十月かんなずきの半なかばから雪のちらちらやって来くる十一といち月の半なかば頃まで、ぽっちりとその世ばなれのした湯の中へ浸っていたいということだ。無論むろん、ウイスキーに何か二三種みたねのよき鑵詰かんずめなどどっさり用意よういしてだ。其処そこから四里にして上高地かみこうち、六里にして飛騨ひだのの平湯ひらゆがある。共に焼岳やけだけをめぐった、雪の中の温泉おんせんである。

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Where this text comes from

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Source edition (底本)
底本:「みなかみ紀行」中公文庫、中央公論社

   1993(平成5)年5月10日発行

底本の親本:「みなかみ紀行」書房マウンテン

   1924(大正13)年7月

入力:浦山敦子

校正:栗田美恵子

2024年8月29日作成

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浦山敦子
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